エピローグ
彼女たちの幸福〈1〉
年明けて間もなく、ブランシェリウムの街はグリーンヒル伯爵令嬢の新しい噂で持ちきりだった。
夜這い未遂事件に深く傷つき、修道院に駆けこんだフレデリケが、とうとう伯爵家に戻ることを決めたという。彼女をあきらめきれずにいた若者たちが喜びに沸いたのも束の間、思わぬ続報に人びとは驚愕する。
――エンデル伯爵家の次男との電撃的婚約。
騎士の名家であるエンデル家とグリーンヒル家はすでに姻戚関係にあるが、フレデリケ本人のたっての要望でこたびの運びとなったらしい。婿がねに選ばれたグリフィスはエンデルの名に恥じぬ若き近衛騎士で、実は夜這い未遂事件の功労者でもあった。
もともと彼とフレデリケは幼いころから親しくしていた間柄で、長じるにつれて想い合うようになった。しかし受け継ぐ爵位を持たず、騎士としても未熟だったグリフィス少年は一度は初恋をあきらめようとした。
そんな折、不届き者の魔手からフレデリケを守っているうちに忘れかけていた熱情が燃え上がり、例の事件を経て彼女と想いを確かめ合ったのだそうだ。
急転直下の展開に国中が唖然とするなか、苦難を乗り越えて結ばれたふたりへの祝辞を大公夫妻が公表した。すると一気に祝福の声が上がりはじめ、大公夫妻以来の一大ロマンスをだれもが歓迎した。
……という話が聖ベルティアナ修道院に届いたのは、
「シスター・マーニャ、廊下を走ってはいけません! お待ちなさい!」
雷のような中年修道女の怒声が追いかけてくる。しかしマーニャは足を止めずに叫び返した。
「ごめんなさい、シスター・アデリラ! あとでちゃんと怒られにいきますから!」
青い尼僧服の裾を絡げて全力疾走する少女に、修道女たちは揃って目を丸くしている。修道院じゅうを走り回ったマーニャは、ようやく見つけた目当ての相手を大声で呼んだ。
「院長さまぁぁぁ!」
古参の修道女たちと廊下の先を歩いていたマザー・アンゼリーネは、振り返ると眉をひそめた。
「何事ですか、騒々しい」
膝小僧を丸出しにしてぜえぜえ息を切らしている見習い修道女に、年配のシスターたちは呆れと嘆きを混ぜ合わせた顔をした。慌てて裾を直し、なんとか呼吸を整え、マーニャはマザー・アンゼリーネに詰め寄った。
「あの、ど、どうしてもお訊きしたいことが!」
「ええ、そろそろいらっしゃるころだと思っていましたよ」
マザー・アンゼリーネはため息をつくと、他の修道女たちに断ってマーニャを院長室に誘った。
「まったく。元気なのはよろしいですけれど、度が過ぎるのは問題ですね」
「ご、ごめんなさい。でも、あの、リデ……フレデリケさまが、グリフィスさまと、こ、婚約したって聞いて」
もっともな意見にマーニャは項垂れたが、縋る思いで言葉を募った。マザー・アンゼリーネはあっさりと頷いた。
「そのようですね」
「な、な、なんで……だってフレデリケさまは……」
男に戻ったはずではないのか?
動揺しきったマーニャの様子に、マザー・アンゼリーネは再びため息を落とした。
「わたくしも、まさかこんなことをしでかすとは思いもしませんでした。考えつくほうも考えつくほうですが、認めたほうもまったくどうかしています。……しかし、あの方が正攻法を選ぶはずもないですからね」
「あの、いったいどういう……」
「仔細はご本人に伺ったほうがよろしいでしょう。ところで、シスター・マーニャ」
マーニャを置き去りに話題を切り替えたマザー・アンゼリーネは、書き物机から一枚の用紙を取り出した。
「あなたの終生誓願の件ですが――実は、その延期を嘆願する要望書が届きました」
「えっ!?」
ぴらりと差し出された用紙には、流れるような筆跡で『シスター・マーニャの終生誓願をお待ちいただきたくお願い申し上げます』と確かに記されていた。
差出人は、グリーンヒル伯爵ウィルバート・ライール。
「どっ、どっ、どういうっ」
「要望書によれば、シスター・マーニャはすでに神前にてさる殿方と生涯の愛を誓い合っている。その宣誓は未だ破棄しておらず、ゆえに未婚であるべき修道女とするには問題あり……だそうですが?」
マザー・アンゼリーネはちらりとマーニャを見た。茫然と文面を凝視していたマーニャは、爆発したように耳の先まで赤面した。
(リデルぅぅぅ!?)
身に覚えはある。しかし、あれはあくまでふたりだけの約束であって、確かに結婚の宣誓そのものだったが……!
(そっ、それとこれとは話が違うし、だいたい伯爵さまの名前で要望書が来たってことはご家族も知ってるってこと!? じゃあグリフィスさまとの婚約っていうのはなんなのよっ!)
「シスター・マーニャ?」
「はっ、はいぃ!」
思わず飛び上がったマーニャに、マザー・アンゼリーネは強調するような口調で尋ねた。
「要望書のとおり、神の御前で愛を交わした方がいらっしゃるというのは、事実ですか?」
もはや頭から黒煙が噴き出しそうだった。
いっそ断崖から飛び降りたいような羞恥に涙ぐみながら、マーニャは蚊の鳴き声よりも小さい声で答えた。
「ほ、ほん……ほんとう、です」
「――それはそれは、由々しき事態ですね」
口ぶりとは裏腹に、マザー・アンゼリーネはにやっと笑ってみせた。衝撃的な表情にマーニャが固まっていると、控えめに扉が叩かれた。
「あの、お話し中に申し訳ありません。院長様……」
困惑が滲んだ修道女の声に、マザー・アンゼリーネは「来客ですか?」と予言者のように問うた。
「は、はい。あるご令嬢が侍女の方と一緒にいらっしゃいまして」
「どうぞ、お通しなさい」
しばらくして、修道女のひとりに案内されて訪問者がやってきた。
まず部屋に入ってきた白髪の少女に、マーニャは声を上げた。
「テティアさん!」
「お久しぶりです、シスター・マーニャ」
あいかわらず暗色の簡素なドレス姿のテティアは、ゆるやかな微笑で応えた。
「どうしてここに……」
「わたしは単なる付き添いです。他に適役の者がいなかったので」
「付き添い?」
テティアは頷き、マザー・アンゼリーネに一礼すると、場所を譲るように脇へ退がった。
治療師の後ろから進み出たのは、春だというのに女性用の外套を頭からすっぽりと被った人物だった。一見すると顔を隠して修道院に駆けこんできた淑女のようだ。
しかし、するりと外套を脱ぎ捨てると、そこには女子修道院に足を踏み入れられぬはずの少年がいた。
「修道院に入れる未婚女性で事情を知ってる協力者っていうと、テアぐらいしかいなかったんだ」
フレデリケはにっこりと微笑んだ。
細身を包んでいるのは略式の騎士服で、長い髪をうなじできっちりと結わえた様はどこまでも凛々しい。さすがに帯剣まではしていなかったが、惚れ惚れせずにはいられないような立ち姿だ。
瞬きを忘れて見入っているマーニャの視線に、彼は少し照れ臭そうな顔をした。
「急いで仕立てからしっくりこないんだ。……変じゃないかな?」
「ぜ、ぜんぜんおかしくないよ!」
マーニャはすかさず反論した。力みすぎて声がひっくり返っている。
「すごく……かっこいい」
現状を忘れて見つめ合っていると、マザー・アンゼリーネの咳払いがふたりをたしなめた。
「……ここは男子禁制なのですけれどね、ロード・フレデリケ?」
「お許しください、院長様。僕も万が一のために女装のままで来ようとしたんですが、父に『男として勝負に出るならふさわしい格好をしろ』と言われまして」
フレデリケは苦笑した。どうやら『勝負服』を用意したのはウィルバートらしい。
しかし勝負とはいったい何と戦うつもりなのか。
「あの……?」
まったく話の掴めないマーニャに、フレデリケは艶やかに笑って答えた。
「僕はきみに求婚しにきたんだよ、マーニャ」
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