乙女の祈り〈2〉

 使者が待っているという聖堂へマーニャはひた走った。

 すれ違う修道女たちは何事かと目を剥き、注意が飛んできたがかまっていられなかった。あとでシスター・アデリラにこっぴどく怒られるに違いない。

 聖堂の前にたどり着いたときには、マーニャの息はすっかり上がっていた。呼吸を整える間もなく、もどかしく扉を押し開く。

 春の陽射しが薔薇窓から七色の光となって降り注いでいた。淡い影が落ちた聖壇の前に、見慣れた青い尼僧服を纏った後ろ姿があった。

(あのときとは反対ね)

 反動で扉が閉まる音に、ゆっくりと彼が振り返る。マーニャは震える吐息をこぼした。

「――リデル」

 フレデリケは小さく瞬き、ほろりと笑んだ。気づけば駆け出していた。

 勢いよく飛びつくと、応えるように抱き返してくれる。マーニャはいっそう少年にしがみついた。

「もう会えないかと思った」

 フレデリケと別れたのは、あの日の翌朝だった。

 夜更け近くまで一緒に過ごしたが、ほとんど会話はなく、静寂に浸るようにじっと寄り添っていた。朝靄の晴れぬうちにグリーンヒル伯爵家から迎えが寄越され、遠ざかっていく馬車の音に目覚めたときには別荘からいなくなってしまっていたのだ。

「ごめんね。最後に顔を見たかったんだけど、あれ以上わがままを言えなくて」

「ううん、いいの。リデルを困らせたいわけじゃないもの」

 悲しげな声に、マーニャは慌てて頭を振った。

「もしかして、今日も無理をしたの?」

 不安になって尋ねると、フレデリケは「大丈夫だよ」と表情を和らげた。

「父上にきちんと自分で挨拶をしてこいって言われたんだよ。『シスター・フレデリケ』が還俗するためには僕自身の手続きが必要だからね。グリフィスが外で待っててくれてるんだ」

 還俗という言葉に、マーニャは思わず彼の胸元を握り締めた。

「……本当に戻るのね」

「うん」

 フレデリケは金色の瞳を細め、はっきりと頷いた。

「反大公派の勢力をすべて片づけたわけじゃない。でも、嘘を重ねて身を隠す必要はもうなくなったんだ。家に戻って……家督を継ぐための準備に入る」

 ウィルバートはまだまだ健在であり、フレデリケが伯爵を襲名するのはしばらく先のことだ。だが、そのために嗣子として彼が身につけ、こなさなければならないことは数多くある。

 フレデリケ・エリアス・グリーンヒルが、だれもが認める次期伯爵へと孵化するための輝かしい門出だった。

「おめでとう、リデル。あっ、未来の伯爵さまに対して馴れ馴れしすぎるかな」

 涙をごまかすためにふざけてみせると、フレデリケはきゅっと眉間に皺を寄せた。

「冗談でも、そんなこと言ってほしくない」

「……ごめんね。リデルが許してくれるなら、あたしもずっとこのままがいいな」

 最初は特別な愛称で呼ぶなんてとんでもないと思っていたのに、彼自身に向けて口にできなくなることがたまらなく寂しい。

「当たり前じゃないか」

 フレデリケのまなざしが切なく揺れている。もう少女には思えない声が言った。

「僕がそう呼んでほしいと思う女の子は、きみだけだよ」

 マーニャは息を止めて目の前の少年に見つめた。

(僕は、きみを友達だなんて思ってないよ)

 喧嘩をした夜、フレデリケは意趣返しにひとつくらい本音を教えてやると言った。意地悪な嘘だと思った。

 だが、嘘のなかに紛れこんだ本当だったとしたら?

 自分と同じ温度と強さで心臓を射抜く瞳に、マーニャは幸福な敗北を思い知った。

(神さまは、どんな秘密さえお見通しなのね)

「……シスター・フレデリケ。あなたがロードにお戻りになる前に、あたしの懺悔を聞いていただけませんか」

 突然の願い出にフレデリケは睫毛を上下させた。物言いたげな沈黙のあと、小さく答える。

「わたくしでよろしければ」

 マーニャは微笑んだ。

「ありがとうございます。……リデルには、あたしが修道院に来た理由を話したよね?」

「きみのご家族に心から感謝するよ。きみが身売りなんてしなくて本当によかった」

 フレデリケは顔を歪め、いっそうきつくマーニャの背中に腕を回した。自然と触れ合った頬に、マーニャは目元を染めた。

「うん、あたしもそう思う。でもね、本当は……もっと違う理由だったの」

 そっと瞼を下ろせば、十四歳の春の決意が甦る。

 大好きな姉、頼もしい幼なじみ。ふたりが結ばれることへの喜びと――胸の奥に刻まれた傷。

 幼いころからそばにいてくれた年上の幼なじみ。臆病で泣いてばかりいた自分を不器用に慰め、どんな恐怖からも守ってくれた。信頼はあえかな恋慕へと当たり前のように育っていった。

「好きなひとがいたの」

 フレデリケの呼吸がはっきりと乱れた。

「だけど彼が好きなのはあたしの姉さんで、姉さんも彼のことが好きだった。すごくお似合いのふたりで、姉さん、彼から求婚されたってとっても嬉しそうだった」

「……姉上のために、きみは身を引いたの?」

「ううん、あたしはただ逃げ出したの。彼に告白する勇気も、その結果を受け容れてふたりを祝福する勇気もなくて、自分は不幸でかわいそうな人間なんだって憐れんでたの。ぜんぜん悲しくなんてない、つらくなんてないって嘯きながら――自分の殻に閉じこもってたのよ」

 目を開けると、睨むように烈しいまなざしに捕らわれた。

 マーニャはとろけるような心地で笑ってみせた。

「でもね、あるときやってきたお嬢さまに殻をぶち壊されて外に引っ張り出されたの。あたしの意見なんかおかまいなしに振り回して、引っ掻き回して、腹が立つほど楽しそうに笑うの。涙が出るくらい恥ずかしい思いもさせられたし、怒ったし、毎日へとへとだったわ。だけど、だけどね……嫌いになんてなれなかった」

「――どうして?」

 熱に浮かされたようにフレデリケはささやいた。

「こんなあたしを、必要だって言ってくれたの」

 無邪気な笑顔を見ていると、ちっぽけな自分の悲劇が馬鹿馬鹿しくなった。仮面の下に淋しさを潜ませながら、偽りのなかですら自分らしく輝こうとする気高い美しさに憧れた。

 けれど、彼はいつだって同じ目線で隣に立ち、素朴な優しさを差し出してくれた。

「だれよりもあたしの味方で在ろうとしてくれたリデルを、嫌いになれるはずないじゃない。あたしも、リデルの一番の味方になりたいと思った」

 燃え上がる朝焼けの色の瞳を一途に見つめ、マーニャは偽りのない想いを捧げた。

「好きよ、リデル。世界で一番、あなたが大好き」

 笑み崩れたマーニャを、フレデリケは力いっぱい抱き締めた。

「僕だって」

 引きずられるままずるずると膝をつく。喉を詰まらせたような声で、震えながら彼は言った。

「きみが大好きだよ。友達なんかじゃ我慢できないくらい、マーニャが、だれよりも好きなんだ」

 愛しさに溺れて死んでしまいそうだった。今、この刹那に時が止まってしまったらどんなに幸せだろうか。

 叶わぬ願いの代わりに、永遠に忘れぬよう胸の奥深くに焼きつけよう。

 マーニャは金翠の髪をやわらかく撫で下ろした。

「あたしね、もう自分がかわいそうだなんて思わない。あたしがいてくれてよかったって言ってくれたひとたちのために、大好きなあなたのために、一生懸命お勤めに励むわ。神さまが呆れるぐらい立派な修道女になれば、リデルたちの幸せをちょっぴりでも奮発してくださるかもしれないもの」

「……商売人みたいな神様だね」

 フレデリケはおかしそうに呟くと、うっすらと濡れた面を上げた。

「でも、きみらしいや」

 鼻先をこすり合わせ、ふたりは笑った。許された時間はもうわずかだと言わずともわかっていた。

 マーニャ、と甘く彼が名前を呼んだ。抱擁を解いたかと思うと、それぞれの指を絡めるように両手を捕らわれる。

「僕たちの神様の前で、約束したいんだ」

「何を?」

「病めるときも健やかなるとも、たとえそばにいられなくても、魂だけになったってきみのへの想いは変わらないって」

 まるで結婚の誓いのようだ。だが決してままごと遊びではないと、フレデリケのすべてが叫んでいた。

 マーニャは迷わず彼の手を握り返した。

「あたしも、約束します。どんなに苦しいことや悲しいことがあっても、しわしわのおばあちゃんになっていつかお墓に入っても、ずっと、ずっと、フレデリケ・エリアス・グリーンヒルを想い続けます」

 つたない宣誓は、静かな口づけに溶けた。

 くちびるに重なる熱に目を伏せると、ひと粒だけ溢れた涙が少女の頬を伝い落ちた。

 慈悲深い聖家族の彫像だけが、ひっそりと重なり合った影をいつまでも見守っていた。

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