第七話
乙女の祈り〈1〉
迎春祭から半月が経った。
療養を終えたマーニャは聖ベルティアナ修道院に戻っていた。修道女たちは労わりとともに迎えてくれたが、一方で腫物に触るようなよそよそしさも滲ませていた。
修道院では一連の騒動について箝口令が敷かれ、水面下での憶測に拍車をかけているようだった。渦中にあったマーニャの存在を修道女たちは持て余しているらしく、以前と同じく接してくれるのはあいかわらず小姑のようなシスター・アデリラぐらいだ。
(気になるのはしょうがないわ。とんでもない大事件だもの)
マーニャはひっそりとため息をついた。
自由時間には人目を避けて書庫の閲覧室に引きこもるのがすっかり癖になってしまった。教本と筆記帳を広げてせっせと筆を動かしていれば、見つかってもなんとなく放っておいてくれるのだ。実際に頭に入ってきているかどうかは別にして。
(シスター・リュシアに出された課題、採点してもらえないままになっちゃった……)
筆記帳には、たどたどしい筆跡で現代公用語に訳された古い詩篇が綴られていた。
大帝国時代以降、大陸のほぼ全土で共通の言語が使われている。地域や年代によって微妙な差異はあるが、現代公用語が解せればどこの国へ行っても日常会話に困ることはない。
しかし、聖典は原則的にラキア語と呼ばれる古語で記されている。そのために神に仕える者はラキア語の必修が定められているのだ。マーニャはすでに現代公用語の読み書きを身につけているが、ラキア語についてはまだまだ不安要素が多かった。
分厚い辞書と睨めっこをしながら完成させた訳詞は、我ながらところどころあやしいものだった。シスター・リュシアはひとつひとつ間違いを丁寧に指摘し、正解を教えてくれただろう。最後には薄いくちびるをやんわりとゆるめ、一生懸命よくがんばったと褒めてくれたかもしれない。
じわりと目元が熱くなり、マーニャは慌ててごしごしとこすった。
「シスター・マーニャ」
呼びかけにハッと顔を上げると、マザー・アンゼリーネがすぐそこに立っていた。
「院長さま……」
「今日も勉強熱心ですね」
マザー・アンゼリーネは薄紫の瞳を細め、「少しよろしいですか?」と訊いてきた。戸惑いつつ、マーニャは頷いた。
「古典の勉強ですか?」
「あの、ラキア語の詩の訳を……」
向かいの席に座ったマザー・アンゼリーネは、懐かしそうに筆記帳を見ていた。
「あなたの読解力は本当にすばらしいですね。もうその長さの詩編を訳しきるなんて」
「そ、そんなこと」
「世辞ではありませんよ。シスター・リュシアも、あなたは覚えが早いし向上心もあって、とても教え甲斐のある生徒だとよく言っていました」
さらりと飛び出した名前に、思わず息を呑む。マザー・アンゼリーネは苦笑した。
「……シスター・アデリラがね、あなたが日に日に思い詰めた顔になっていくのを見ていられないと心配していましたよ。もちろん、わたくしも」
細い指が訳詞をなぞる。マーニャはぎゅっと尼僧服の膝を握り締めた。
「……ごめんなさい」
「決して叱っているのではないのですよ。……あなたが胸を塞がれるような思いに囚われるのは当然です」
ぱらりと頁がめくられた。その下から現れたのは、ひどく皺の寄った手紙だった。
「……先ほど、グリーンヒル伯爵からの使者が見えられました。彼女の身柄は公都の監獄に収容されているそうです」
体が震えた。
マーニャははくはくと息を洩らし、空回る口で尋ねた。
「シスター・リュシアは、い、生きて……?」
「ええ。まだ裁判は終わっていませんが、おそらくは終身刑になるだろうと」
堪えたはずの涙がこぼれ落ちた。マザー・アンゼリーネが驚いたように目を瞠る。
「よかった……!」
こみ上げてきたのは、安堵だった。
シスター・リュシアがこれからどうなるのか、想像もできなかった。もしかしたら死刑になってしまうかもしれないと考えるだけで怖かった。
くしゃくしゃに顔を歪める少女に、マザー・アンゼリーネは苦しげに眉を引き絞った。
「彼女の命を、惜しんでくださるのですか」
マーニャはしゃくりを呑みこんで答えた。
「ず、ずっと考えてました。なんで何も言ってくれなかったんだろうとか、もっとできることがあったんじゃないかとか。すごく悔しくて、自分が情けなくて」
シスター・リュシアを思い返すたび、泣きたくなるような無力感を味わった。手紙についた皺のように、心に刻まれた爪痕はきっと消えないままだ。
――けれど、ともに過ごした時間がけして無価値ではなかったと、彼女は言ってくれた。
「シスター・リュシアのしたことは、どんな理由があってもやっぱり間違ってると思います。でも、過ちは悔い改めて正すことができるはずです。あたしがこうやって生かされたのは、神さまがもう一度シスター・リュシアに立ち直る機会をお与えくださったからなんじゃないかって感じたんです」
きれいごとのような結果論かもしれない。それでも、マーニャは信じたかった。
生きて罪を償い、シスター・リュシアが赦される未来を。悲しみと憎しみに囚われた心が解き放たれる日の訪れを。
「あたしの幸せを祈るって言ってくれたシスター・リュシアのために、あたしも祈り続けます。これからも、ずっと」
マザー・アンゼリーネは静かに瞑目した。
「――あなたがいてくださって、本当によかった」
万感のこめられた、深い深い声だった。
マーニャ以上に厳しい立場にあり、好奇と疑惑の目を向けられながらも凛然とした姿勢を貫く彼女の胸中がほんのわずかに覗いた気がした。
「偽りという苦しみのなかに彼女を突き落したのは、紛れもなくわたくしです。過去を忘れ、真実に蓋をすることがあの子を救うと傲慢にも信じてやまなかった。本当に必要だったのは、まっすぐ向き合い、あの子の思いを理解しようとする努力だったのに」
「院長さま……」
「わたくしにできることはもう何もありません。……でもね、せめて残された時間のすべてを使ってあの子のためだけに祈ろうと決めたのですよ」
儚い笑みに、懐かしい面影が重なった。故郷に別れを告げた日、二度と戻らない娘をいつまでも見送り続けていた母の顔だった。
マーニャは両手を伸ばし、マザー・アンゼリーネの手を包みこんだ。
「あたしは、院長さまがシスター・リュシアを助けたことが間違いだなんて思いません」
力強い少女の言葉に、老修道女は微かに瞳を揺らした。
「あたしも、院長さまやシスター・リュシアがいてくれて、本当によかったです。この修道院に来てよかった。ここでたくさんのことを学んで、みんなに出会えて、心から神さまに感謝しています」
物わかりのいい自分を演じて人生を悲観していた。だが嘆くばかりで意志を投げ出すことと、運命と向き合い、受け容れることは違うのだと今ならわかる。
マーニャの人生はありふれた平凡なもので、それが意味や価値を否定するわけではない。マーニャ自身が否定していただけなのだ。
(あたしたちを憐れんでくださるのは神さまの仕事。あたしたちは、胸を張って自分の人生を誇れるように生きていくことが仕事なんだわ。つまずいたり間違ったりしながら、そのたびに天を仰いで、救いや赦しを一歩に変えて前に進んでいかなくちゃいけない)
マザー・アンゼリーネはもう一方の手をマーニャの両手に重ねた。
「ありがとう、シスター・マーニャ」
泣き笑うような微笑みは、弱々しくも芯を感じさせるものだった。
「少しと言いながら話しこんでしまいましたね。あなたを呼びにきたはずだったのに」
打って変わっておどけたような口調だった。グリーンヒル伯爵家からの使者がマーニャを待っているのだという。
(もしかして――)
どきりと高鳴った少女の心音が聞こえたように、マザー・アンゼリーネは優しく笑った。
「きっと今、あなたが一番お会いしたい方ですよ」
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