道化師の懺悔〈3〉

 紗を透かして射しこむ陽は黄昏の色に煙っていた。

 繊細な透かし編みで織り上げられた覆いをめくると、ようやく青い新芽が生え揃ってきたばかりの木々の影が見えた。

別荘の周りは木立で囲われているようだ。テティアによれば、公都にほど近いエンデル伯爵家所有の荘園に建っているらしい。

(だからこんなに静かなのかしら……)

 それとも、客人が帰ってしまったからだろうか。

 マザー・アンゼリーネとウィルバートは、すでに別荘をあとにしていた。ふたりとも一件の事後処理に追われる忙しい身で、なんとか時間を作って見舞いに来てくれたらしい。特にマザー・アンゼリーネは名残惜しくマーニャの手を握り、くれぐれも無理をしないようにと優しい言葉をかけてくれた。

 フレデリケは見送りだけしてすぐに戻ってくるような口ぶりだったが、困ったように苦笑していたウィルバートの様子を見る限り、それこそ無理を押し通してついてきたのかもしれない。何しろ、つい先日まで命を狙われていたのは他ならぬ彼なのだから。

 コンコン、とためらいがちに扉が叩かれた。

 マーニャが振り返るのと同時に、金翠の髪を揺らしてフレデリケが入ってきた。

「遅くなってごめんね、マーニャ」

 夕暮れの光に縁取られたフレデリケは、古い絵画のなかから抜け出してきたようだった。

 マーニャは慌てて頭を振った。

「う、ううん。リデルこそ、伯爵さまと一緒に戻らなくて大丈夫なの?」

「ひと晩だけ外泊許可をもぎ取ってきた。まあ、口うるさい護衛つきだけど」

 肩を竦めてみせたフレデリケは、ふとマーニャの手に握られたままの手紙に視線を留めた。反射的に胸元へ引き寄せる。

「……エリュシアーヌ・シュテファンにとって、きみは特別な相手だったんだね」

 ぽつりと落ちた呟きに、マーニャはくちびるを引き結んだ。

「マーニャにとっても、大事なひとだった?」

 春の落日を映して、金色の瞳がマーニャを見つめる。睫毛の先がどこか頼りなく揺らいでいるような気がした。

「……うん」

 小さく頷いて、マーニャは言葉を探した。

「故郷のね、姉さんみたいに思ってた。優しくて、穏やかで、物知りで……シスター・リュシアみたいな修道女になれたらいいなって、憧れてた」

 胸元でくしゃりと乾いた音が洩れた。

 妹のように想っていたと彼女は伝えてくれた。ともに過ごした一年間は、生涯忘れえぬ宝だと。

 ――けれど、自分は彼女の決断を思いとどまらせることはできなかった。

「マーニャ?」

 気遣わしげにフレデリケが呼ぶ。マーニャは俯くと、体当たりするように彼の懐に飛びこんだ。

 びくり、と少年の肩が震えた。

「……あたし、自分がこんなにずるい人間だなんて知らなかった」

「マーニャ……」

「こんなことになって悲しいのに、シスター・リュシアが苦しんできたことにぜんぜん気づけなくて悔しいのに……リデルが生きててくれたことが、一番嬉しいの」

 かすかに息を呑む気配がした。若草色のドレスの肩に額を押しつけ、マーニャは湿っていく目を閉じた。

 どんな言葉で埋め尽くしても後悔は止まらない。シスター・リュシアの最後の望みを叶えられるかどうかもわからない。もしかしたら、これからずっと悔やみ続けるかもしれない。

 だがそれ以上に、こうして何ひとつ失わずにフレデリケがいてくれる喜びに、どうしようもなく心が震えるのだ。奇跡が降り注いだように、神への感謝を捧げずにはいられない。

「あたし、もしもあのままリデルが死んじゃったら……きっとシスター・リュシアのこと許せなかった。どんな事情があったとしても、絶対に」

 だからこそ、彼女を憎まずにいられて本当によかったと、心から思う。

 フレデリケの手が背中に触れた。低い声がささやく。

「僕は許せないよ」

 マーニャは目を見開いた。顔を上げると、表情を歪めたフレデリケと視線が絡んだ。

「きみを巻き添えにしたエリュシアーヌ・シュテファンが許せない。何より、きみを守れなかった自分自身が、一番、憎い」

「リデル――」

 わずかに小柄なマーニャの体を抱き寄せ、彼は告白した。

「ずっと嘘をついて生きてきたんだ。窮屈なドレスも、足が痛くなる細い靴も、臭い化粧だって、おまえのためだからって言われて我慢してきた。行儀作法も、刺繍の手習いも、舞踏の練習も、『伯爵令嬢』に必要なことはなんだって身につけてきた」

 グリフィスや年の近い甥たちに混じって木登りや戦争ごっこをすれば叱られ、女の子らしいふるまいを強要されたという。特に母君である伯爵夫人の躾は厳しく、護身のための剣術を身につけることすら許してもらえなかったそうだ。

 だから僕が扱えるのはせいぜい短剣か暗器ぐらいなんだよ、とフレデリケは苦笑いをこぼした。

「社交界に出るようになってから余計につらかったな。女として見られて、それに笑って媚びる自分に反吐が出そうだった」

 少年らしい彼の、傷ついたまなざしをはじめて目にした気がする。

 マーニャの知るフレデリケはいつでも奔放で、溌剌として、揺るぎない美しさに溢れていた。だが、だれよりも自分自身を騙し続けることで、彼は堅牢な鎧を作り上げたのではないだろうか。

 麗しい道化を演じきらねば、生きることすら許されなかったのだ。

「……だけど、今思えば守られることに甘んじるだけの子どもだったんだ」

 白い指先がするりと頬を撫でる。フレデリケは眉尻を下げ、失敗したような笑みを浮かべた。

「守ってもらえて当然だって驕ってたから、不用意なぼろを出したり、無関係な女の子を巻きこむような事態に陥るんだ。なんの知恵も力もないくせにひとりで粋がって、空回りして、大切な女の子を傷つけて……やっぱり最後まで守られる側なんだ」

 泣き尽くして掠れたような声だった。今にも溶け出してしまいそうな瞳を見つめ、マーニャはそっと額を寄せた。

「あたしだって、リデルにひどいこと言ったわ」

「うん、結構傷ついた」

「結構?」

「……ものすごく」

 ごめんねと謝ると、僕も、と彼は続けた。

「ひどいことして、ごめん」

「でも、あたしのために考えてくれたからなんでしょ?」

 フレデリケは視線をさまよわせながら、こくりと頷いた。

 マーニャは笑った。

「あのね、リデル。リデルはあたしのこと、ちゃんと守ってくれたよ」

「え?」

「あたしの心。あたしのことを守ろうとしてくれて、すごく嬉しい」

 自分の気持ちに嘘をついてきたのは、マーニャも同じだ。

 あきらめのなかで心がすり減っていくような一年間だった。どんなに平穏で優しい日々でも、本当に口にしたい願いは決して言葉にできなかった。

 ――だれかに、必要とされたいと。

「リデルの友達になれて嬉しかった。夜中までおしゃべりしたり、こっそりつまみ食いしたり、一緒にシスター・アデリラに怒られたり、おつかいから帰ってきたときにすごく心配してくれたり。リデルがいてくれたから、あたし、楽しいっていうことを思い出せたんだよ」

 心を揺り動かし、素直に思いを伝えること。生をそのままに感じ、尊ぶこと。

 隣にいる存在を愛する喜び、そのひとのために祈ることを教えてくれた。

(シスター・リュシアもそうだったのかな)

 マーニャのためなら神に祈ることができるという彼女の言葉が、少しだけ信じられる。

「だから、苦しまないで。今じゃなくてもいいよ。いつかリデルの心を許してあげてほしいの」

「……きみって本当にお人好しだよ」

 フレデリケはきつく目を細め、マーニャの首筋に顔を伏せた。深まる夕闇のなか、ひっそりと彼は呟いた。

「僕のシスターが、マーニャでよかった」

 少女は瞼を閉ざし、密やかに神の名を唱えた。

 主よ、どうか憐れみたまえ。

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