道化師の懺悔〈2〉
寝台の上で過ごしている間、ずっと考えていた。
シスター・リュシアとは、いったいだれなのか?
幼くして修道院に入り、更には名を偽って生きねばならなかった女性。二十年前の戦火によって家族も故郷も奪われ、運命を恨まずにはいられなかったひと。
けれど、マーニャにとっては、故郷の姉のように慕わしい存在だった。読み書きのできない村娘を嘲ることなく、ひとつひとつ丁寧に文字を教え、知識という豊饒の海を旅するすばらしさを与えてくれたのは彼女だった。
何を思い、何に苦しみ、そしてなぜフレデリケを殺そうとしたのか――その心が知りたかった。
「しかし、ひとつだけ我々の想定していなかった誤算が生じてしまった。いや、彼女のほうが先だったと言うべきかな」
ウィルバートの言葉に、マザー・アンゼリーネが目を伏せた。老修道女の吐息が重く床に落ちる。
「……神の御前で偽りを申したという点では、わたくしも同罪ですね」
「院長さまが?」
「ええ。二十年前、本来ならば逆徒の娘として処断されるはずだったヴェレネルフ伯爵令嬢を匿ったのは、他ならぬわたくしですから」
それは確かに聞き覚えのある名前だった。〈首斬り公〉の寵臣で、かつての北部諸侯の筆頭格。教えてくれたのは――
「彼女の名は、エリュシアーヌ・シュテファン・ヴェレネルフ。故ヴェレネルフ伯爵の庶子です」
マーニャは小さく息を吸いこんだ。
マザー・アンゼリーネは過去を回想するようにまなざしを煙らせた。
「戦局が決して間もなく、公弟派による残党狩りを逃れた幼い令嬢が修道院に逃げこんできました。ひとりだけつき添われていた従者の方は、我が身を盾として彼女を守り抜いたのでしょう……ひどい傷だらけで、手当ての甲斐もなく亡くなってしまわれました。ちょうど、わたくしの息子と同じ年頃の青年でした」
(そうだ。院長さまは、ご子息を内乱で……)
だれもが愛するひとを戦乱で奪われた。だが前大公が打ち倒されなければ、ディッセルヘルムは亡国となっていただろう。流された数多の血の上に、マーニャたちは生きているのだ。
「迷わなかったわけではありません。大公家に生まれた者として、彼女の身柄を公弟派に引き渡すべきだったのでしょう」
けれど、と呟いた老修道女は、皺だらけの両手をきつく握り合わせた。
「もうたくさんだと思いました。殺すことも、殺されることも。わたくしたちはあまりに多くの犠牲を払いすぎた。寄辺を失い、故郷を追われたたった七歳の少女に、どうして更なる非情を強いることができましょう」
マザー・アンゼリーネの言葉はひどく掠れていた。悲しみにすり切れた女の声に、フレデリケはじっと耳を澄ましていた。
ウィルバートもまた、口元に苦渋を滲ませていた。
「だれにもあなたを責めることはできません」
「……しかし、わたくしの過ちがこたびの一件を引き起こしたのは事実です」
薄紫の瞳に翳りが差す。マザー・アンゼリーネはどっと老けこんだようだった。
「シスター・リュシアは、敬虔な、優秀な修道女でした。この二十年、ただ静かに、穏やかに暮らしてこられた。亡くなられたご家族や縁者の方々を悼みこそすれ、悲しみを怨恨に変えるようなひとには思えませんでした。……わたくしは、彼女の抱えてきた苦しみを何ひとつ理解できていなかったのですね」
「院長さま……」
思わず声をかけたマーニャに、マザー・アンゼリーネは微かに笑った。
彼女にとって、シスター・リュシアは娘も同然だったのかもしれない。喪失の痛みを分かち合い、残された者同士寄り添い合って生きてきたのだろう。
だれよりも知っていると思っていたからこそ、少女の胸の奥深くに秘められたものに気づけなかったのではないか。
「ヴェレネルフ伯爵令嬢に接触したのは、伯爵家の使用人だった女でした。女は前大公派の組織の一員で、元旦の炊き出しの際に令嬢に毒を渡し、フレデリケの暗殺を教唆したそうです」
ウィルバートは、あの老婦人も含め、暗殺計画を企てた一味の身柄をすでに拘束していると明かした。
「あの、シスター・リュシアはどうなるんですか!?」
マーニャの問いに、グリーンヒル伯爵は複雑な顔で首を横に振った。
「残念ながら実行犯である以上、刑罰を免れることはできないだろう。彼女自身、自らの罪を認めて刑に服すると言っている」
「そんな……」
罪を犯したのだから罰を受けるのは当然だと割り切ることなどできなかった。見落としてしまっていたものがあまりにも多すぎて。
無力感に打ちひしがれる少女に、ウィルバートは気遣うように目を細めた。
「ヴェレネルフ伯爵令嬢は、あなたをとても心配していたよ」
「え……」
彼は懐から一通の手紙を取り出した。
真っ白な上等の封筒には、グリフィスの『恋文』と同じように深紅の蝋で封が施されている。そこに刻まれているのは、
「ヴェレネルフ伯爵家の紋章……」
ぽつりと呟いたフレデリケに、ウィルバートは頷いた。
「シスター・マーニャ、彼女からあなたにと預かったものだ。本当はあなたに直接会って謝りたいと言われたのだが、さすがに認められなかったのでね。ならば、せめて手紙を宛てることを許してほしいと」
マーニャはのろのろと手紙を受け取った。フレデリケが書きもの机から持ってきてくれた紙切り用の小刀で封を開ける。
広げた紙面には、幾度となく目にした流麗な筆跡で文章が綴られていた。マーニャは思わず皺が寄るほど便箋を握り締めた。
「『親愛なる――』」
親愛なるシスター・マーニャ。
あなたがこの手紙を読んでくださっていることに、わたしは心から安堵しています。あなたが無事に回復され、そしてわたしに懺悔する機会を許してくださったことに。
愚かで恥を知らぬふるまいだと、自分でも思います。けれど、どうしても、あなたにお伝えしたかった。
わたしの身の上は、この手紙を預かってくださったグリーンヒル伯爵閣下からすでにお聞きになっていることでしょう。
わたしの名は、エリュシアーヌ・シュテファン・ヴェレネルフと申します。
父はイーヴォ・ユルド・ヴェレネルフ。二十年前の内乱で前大公派の筆頭として戦ったヴェレネルフ伯爵です。
当時、わたしは七歳でした。父の妾夫人だった母はわたしを産んで間もなく亡くなり、わたしは父の手元に引き取られて育ちました。
父の庇護はとても篤く、幼いわたしが庶子という立場に負い目を感じることはほとんどありませんでした。わたしにとって、父ほど優しく、頼もしく、愛すべきひとはいなかったのです。
戦前、父はたびたび言っておりました。これからの世は北部諸侯が国を動かす時代だと。荒れ野を切り拓き、わずかな恵みを糧に幾世代も耐え忍んできた先祖の屈辱と無念を今こそ晴らすのだと。おまえたちには飢えも貧しさもない、豊かな未来を残してやりたいのだと、そう語る父の笑顔をはっきりと憶えています。
ですが、父の手法は決して許されるものではありませんでした。心の病を患っていらっしゃった大公殿下に取り入り、宰相となるや権力を我がものとし、宮廷から南部諸侯をことごとく排除しました。北部の領民のためという名目で己に都合のいい法を敷き、宮廷ばかりか市井をも混乱に陥れました。反抗する者は容赦なく弾圧し、多くの罪なき人びとを苦しめました。
何より父が愚かだったのは、己を隠れ蓑に悪事を働く輩の存在を見抜けなかったことでしょう。父の名の下におぞましい奸臣がはびこり、国政はますます傾いていきました。
そして、あの大災厄が起こってしまったのです。
おそろしい異常気象が重なり、北部も南部も問わずあっという間に食糧難に陥りました。たったひとつのパンすら手に入らなくなった公都に、地方から逃げ出してきた難民たちが押し寄せました。毎日どこかで暴動が起こり、貴族の邸宅には石や火炎瓶が投げこまれ、ときには暴徒と化した民衆に襲われることすらありました。
我が家も例外ではなく、わたしは乳母や従者とともに身を潜めてあちこちを転々としました。家畜の臭いがこもった納屋に押しこめられ、震える乳母の腕の中で過ごした夜もありました。
宮廷の父はなんとか窮状を打開しようとしましたが、人が嵐の手綱を引くことなど不可能です。そして狂乱の末に大公殿下が伯父君のヴェルダ侯を弑されてしまったことを契機に、公国は百年に一度の悪夢といわれた内乱へと雪崩れこんだのです。
出兵の直前、一度だけ父に会うことができました。見たこともない戦装束に身を包んだ父は、声を震わせ、大粒の涙をこぼしてわたしを抱き締めました。すまない、すまないと何度も許しを乞い、最後にわたしを心から愛していると言いました。子ども心に二度と父に会えなくなってしまうのだとわかって、わたしは行かないでと叫びました。
けれど、父は行ってしまった。
残されたわたしは、父の命で公都にある聖ベルティアナ修道院に身を隠すことになりました。
戦時下においても教会や修道院は一貫して世俗には関わらず、されど救いを求める者には手を差しのべることを惜しまぬ姿勢を示していました。民から国賊と呼ばれていたヴェレネルフ伯爵の娘が生きていける場所は、もはや慈悲深き神の御許しかなかったのです。
父と大公殿下の首が落とされて間もなく、公弟派による残党狩りがはじまりました。わたしは乳母と彼女の夫君、ご子息とともに公都を目指しましたが、追捕から逃れる最中に夫君がわたしを庇ってひどい怪我を負ってしまいました。
夫君はご子息にわたしを託し、自分たちを置いていけと言いました。必ずやお嬢様を守り抜け、と。
ご子息はわたしにとって兄のように親しいひとでした。もしかしたら、父の次に好きだったかもしれません。
彼は命を懸けてわたしを守ってくれました。修道院にたどり着いたとき、彼の体は血に染まっていないところなどないような有り様だったというのに、彼にしっかりと抱きかかえられていたわたしには掠り傷ひとつありませんでした。
息を引き取った彼を、副院長でいらしたマザー・アンゼリーネが手厚く埋葬してくださりました。そしてわたしの身元を戦災孤児のリュシアと偽り、見習い修道女として迎え入れてくださったのです。
彼女は、すべて忘れてしまいなさいと仰いました。つらかったことも、悲しかったことも、自分の本当の名も、何もかも忘れて生きていきなさいと。
忘却がわたしの心を救い、癒し、神の膝元で過ごす平穏な日々に変えてくれる。残された人生を、喪われた人びとのために心静かに祈ることに尽くしなさいと。それが彼らの望みでもあると。
二十年、そのお言葉のとおりに生きてきたつもりです。
父のために、兄のようだったひとのために、父の暴虐によって命を奪われた方々のために、祈ることしかわたしは知りませんでした。それでじゅうぶんなはずでした。わたしは大罪人の娘であり、神の御心によって密かに生き延びることを見逃していただいたのだから、それ以上のことなど考えてはならなかったのです。
シスター・マーニャ。人間とは、どこまで欲深く、罪深い存在なのでしょう。あなたのように純真で、清廉で、他者のために命すら捧げられるひともいるというのに。わたしは神の花嫁にはなれず、悪逆無道な父の血を継ぐ娘でしかなかった。
わたしは、フレデリケ・エリアス・グリーンヒルが憎かったのです。
わたしが奪われ、忘れることを、偽ることを強いられなければならなかったすべてを持つ彼女が。そして、国じゅうを欺いておきながら輝かしい将来を約束されている彼が。だれからも愛され、あなたの心すら手に入れたあの男を、わたしはけして許せなかった。
わたしに彼の正体を教えてくれたのは、乳母でした。乳母はわたしに毒を渡し、父や彼女の家族の仇を取るべきだと言いました。誤解しないでいただきたいのは、けして彼女がわたしに暗殺を強要したのではないということです。わたし自身が考え抜き、自ら選んだ答えなのです。
二十年、わたしは己の心にすら偽り続けてきました。忘れるなどできるはずがなかった。本当は悲しかった。苦しかった。悔しかった。優しい父を、親しい人びとを、女としての幸福も未来も奪い取ったこの国が憎かった。わたしの夢見たものを傲慢な虚構に使い捨てたフレデリケ・エリアスを、殺したいと思わずにはいられなかった。
ただひとつ後悔してやまないのは、あなたを巻きこみ、更には死の淵に追いやってしまったことです。
同じ北部に生まれ、ご家族のために身売りも同然に修道院にやってきたというあなたを、わたしは他人のように思えませんでした。あなたの素直な優しさにどれほど慰められたことでしょう。いるはずもない妹と過ごすような穏やかな幸せを、だれかを慈しむ喜びを、わたしはあなたに出会って知ることができました。
シスター・マーニャ。きっとあなたは、神がわたしを憐れんでお与えくださった最後の祝福なのでしょう。あなたにとって、シスター・フレデリケがかけがえのない賜物であったように。
あなたを想えば、心から祈ることができます。あなたが健やかに、幸せであるように。
あなたやマザー・アンゼリーネには、どれほどお詫びしても赦されぬことをしてしまいました。わたしはきっと父と同じ煉獄へ落ちるでしょう。終末まで魂をつながれ、業火に焼かれ、死したのちもあなたにお会いすることはないでしょう。愚かな私欲に踊らされた道化にふさわしい末路です。
だから、どうか、あなたは苦しまないでください。悔やまないでください。わたしの心を救ってくださったあなたとの日々を疑わないでください。偽りにまみれたわたしの人生で、それだけは紛れもない、わたしが心から誇れる真実なのです。
願わくは、我が身のぶんまで、あなたに神のご加護があらんことを。
文面の最後に記されていたのは、彼女の本当の名前だった。
視界を滲ませた熱はたちまち溢れ、ぽたぽたと便箋に落ちた。マーニャは嗚咽に喉を震わせ、崩れるように膝をついた。
「マーニャ」
フレデリケの手がそっと肩に触れる。
くしゃくしゃになるのもかまわず便箋を抱いたマーニャは、若草色のドレスの胸元に飛びこんだ。
(シスター・リュシア……!)
止まらぬ涙が悲嘆なのか後悔なのか、マーニャにはわからなかった。
声にならない声で叫び続けずにはいられなかった。どうして、なぜと問わずにはいられなかった。
残された想いの深さは、失ってしまった存在の大きさだった。
フレデリケはきつくくちびるを噛み、少女を抱き締めた。その腕のあたたかさに、いっそうマーニャは泣いた。
ふたりの上に、労わるような沈黙が静かに落ちた。
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