第六話

道化師の懺悔〈1〉

 テティアの診断どおり、二、三日も経つと喉の痛みは引き、寝台から起きられるようになった。

 彼女の話によると、マーニャは二日近く昏睡状態に陥っていたらしい。聖ベルティアナ修道院からの急報を受けたグリーンヒル伯爵家並びにエンデル伯爵家が迅速に動き、マーニャとフレデリケを保護し、シスター・リュシアをグリーンヒル伯爵令嬢暗殺未遂の容疑者として捕縛した。

 マーニャの身はエンデル伯爵家の別荘に匿われ、フレデリケも当初は同様だったがすでに生家に戻っている。先日はマーニャの意識が戻ったと聞くなり、馬(馬車ではない)を飛ばして駆けつけたらしい。やはり褒められた行為ではなかったようで、すぐに連れ戻されて謹慎を命じられたそうだ。

 彼と再び顔を合わせることができたのは、意識を取り戻して四日目のことだった。

「マーニャ、会いたかった!」

 部屋に駆けこんでくるなり抱きつかれ、マーニャは大きくよろめいた。慌ててフレデリケが支えてくれる。

「ごめんね、大丈夫?」

「う、うん」

 フレデリケは春らしい若草色のドレスを纏い、両の耳の上に細い濃緑のリボンを飾っていた。艶やかな金翠の髪との対比が美しい。

 彼はまじまじとマーニャの全身を凝視していたかと思うと、不意に相好を綻ばせた。

「すごくかわいい」

 赤面したマーニャは俯いた。

 彼女が身につけているのは見慣れた青色の尼僧服ではなく、小花模様を散らした撫子色のワンピースドレスだ。癖のない髪をおさげにしてリボンで結べば、マーニャのあどけない印象をいっそう甘く引き立てている。

 体調が落ち着いてから袖を通すようになったのは、上流階級の令嬢のような衣装だった。自分にはもったいないと何度も断ったのだが、「必ずこちらをお召しになっていただくようにと言われているんです」と申し訳なさそうなテティアの顔に根負けした。

(グリーンヒル伯爵家からの贈りものだからって……いったいどういうことなのかしら)

 だが、フレデリケから褒められるのは面映ゆくも嬉しかった。彼は上機嫌でマーニャを観賞していたが、はたと気づいたように表情を引き締めた。

「本当はふたりっきりで話したいところなんだけど……今日はどうしてもきみに会ってもらいたいひとがいるんだ」

「え?」

 すると、見計らったように扉が叩かれた。「失礼するよ」と落ち着いた男性の声が聞こえ、ふたりの人物が入ってくる。

「院長さま!」

 そのうちのひとり、灰色の尼僧服に身を包んだ老修道女の姿にマーニャは目を丸くした。

 マザー・アンゼリーネは厳しい目元をゆるめて微笑んだ。

「すっかり元気になられたようですね、シスター・マーニャ。本当によかった」

 深い安堵がこめられた言葉に、マーニャは思わず泣きそうになった。歩み寄ってきた彼女にフレデリケが場所を譲る。節くれ立った細い指がそっと両手を取った。

「自らの命を擲つようなあなたの行いを、わたくしは決して許しません。皆あなたを案じ、その無事を神に祈り続けたのですよ」

「……ごめんなさい」

 マーニャは罪悪感に項垂れた。確かに、自分の行動は軽率で愚かだったかもしれない。

「でも……でもあたしは、リデルを――シスター・フレデリケをどうしても守りたかったんです」

 震えながらマザー・アンゼリーネの手を握り返し、顔を上げて訴える。一年前の春、神だけを愛して生きていけるかと問うたときと同じまなざしが揺るぎなくマーニャを見つめた。

「死ぬかもしれないなんて考えてもいませんでした。ただ、とにかくこのひとを守らなきゃって……守りたいって思ったんです」

「……あなたは、あなたにとって何よりも尊いものを見出したのですね」

 少女の手を優しく叩き、マザー・アンゼリーネは薄紫の瞳を細めた。その視線が唇を引き結んでいる少年へと向けられる。

「シスター・フレデリケ――いいえ、ロード・フレデリケとお呼びしたほうがよろしいでしょうか」

 マーニャはハッと息を呑んだ。

 ロードは貴族の男子に対する敬称だ。フレデリケは洗練された仕種で淑女の礼ではなく、騎士の礼を取った。

「数々のご無礼を心よりお詫び申し上げます。私はフレデリケ・エリアス・グリーンヒル――グリーンヒル伯爵ウィルバートが嗣子、フレデリケにございます」

「存じておりますよ、グリーンヒルのフレデリケ殿。すでにあなたの父君と甥から、事の次第を教えていただきました」

 マザー・アンゼリーネは嘆息し、穏やかに静観していた男性を振り返った。

 六十代前半か半ばといったところだろうか。一見すると地味だが上等な紳士の装いに包まれた長身は、泰然とした威風を感じさせる佇まいだ。

 金褐色の髪はまばらに白く、髭の生えた口元には皺が浮いているが、微笑む金色の瞳は若々しい活気に満ちている。

 見覚えのある面影に、マーニャは目を瞠った。

(もしかして……)

「はじめまして、シスター・マーニャ。挨拶が遅くなってしまって申し訳ない。私は獅子の君より伯爵位を賜っております、ウィルバート・ライール・グリーンヒルと申します」

 フレデリケそっくりな甘い瞳に見つめられ、マーニャは頬を赤らめた。わたわたと頭を下げる。

「こっ、こちらこそ、はじめましてっ」

「あなたにはどんなに感謝してもし尽せません。息子の命を救ってくださり、本当にありがとうございます」

 ウィルバートの表情は見る者の胸をも詰まらせるようだった。彼にとっては、齢を重ねてようやく授かった唯一の息子なのだ。

「そして、無関係なあなたを巻きこんでしまったことを心からお詫びしたい。あなただけでなく、マザー・アンゼリーネをはじめとする修道女の方々にも多大なご迷惑をおかけしてしまった。……すべては、息子を守りたいがために私たちが作り上げた偽りのために」

 忠臣にして英雄と称えられる男は、深い後悔を隠すように目を伏せた。

「……ごめんね、マーニャ。僕はまだきみに嘘をついてた」

 傍らのフレデリケがぽつりと言った。

「そもそも僕が女として育てられたのは、伯爵家の嗣子だと知られないように世間を欺くためなんだ」

「え……?」

 フレデリケが生まれたのは、内乱が収束してわずか五年後のこと。

 当時、国内の情勢はまだ落ち着いておらず、前大公派の残党による抵抗が燻り続けていた。そんななか、公弟の懐刀として活躍したウィルバートの息子の誕生が知れ渡れば、幼い命を葬ろうと画策する者が現れるのは明白だった。

 グリーンヒル伯爵家はフレデリケを女児として公表することを選んだ。大公夫妻やエンデル伯爵家など、信頼の置けるごく一部の人々が真実を知る協力者となって。

「だけど、十五にもなれば社交界に出て大勢の人間とつき合わなくちゃならない。どんなに固く隠し続けてきた秘密でも、思いもよらないところで綻んでしまうのはきみもよく知ってるだろう?」

 苦い笑みを見せたフレデリケに、マーニャは頷いた。あのとき自分がうかつに衝立の向こうを覗いたりしなければ、彼の正体を知らぬまま、共犯者になることも――恋することもなかっただろう。

「だれかに、秘密が漏れてしまったの?」

「最悪なことに、前大公派とつながりのある相手にね」

 二十年の月日が経ち、人々が平穏な営みを取り戻しつつあっても、現大公を簒奪者として認めぬ者がいるのだという。彼らの多くは地下に潜り、密かに雪辱の機会を待ち続けていた。

 そこへもたらされた情報が、憎きグリーンヒル伯爵の『息子』の存在だった。

「前大公派の刺客はフレデリケへの求婚者を装い、我が家に侵入したのだよ」

 フレデリケの言葉を継いだウィルバートの顔は険しかった。

「それって……どこかの男爵の子息が夜這いをかけたっていう?」

「世間ではそのように流布しているようだね。似たような輩を退けるためにエンデル伯爵に協力していただいたことが功を奏して事なきを得たが……」

 しかし、フレデリケが男子という事実が知られてしまった以上、敵も決してあきらめはしない。伯爵子息を守り抜くためには、彼の安全を確保し、なおかつ危険分子を取り除かなければならなかった。

「そこで我が甥が提案したのが、女子修道院にロードの身を隔離するという奇策だったのです」

 マザー・アンゼリーネは「まったくよく思いついたものです」と呆れ顔で言った。当事者の父子は気まずそうに金色の瞳をさまよわせている。

(確かに、まさか女子修道院に男の子が紛れこむなんてだれも思わないだろうし、もともと閉鎖的な場所だから手出しもされにくい……)

 大公家と縁深く、現に先々代の公女でありヴェルダ侯妃だったマザー・アンゼリーネが院長を務めるという点も考慮されたのだろう。こうしてフレデリケは聖ベルティアナ修道院の門をくぐり、水面下での反撃が開始された。

(じゃあ、グリフィスさまからの『恋文』は――)

 おそらく、外の『戦況』を知らせるためにフレデリケへ宛てられたものなのだ。万が一部外者の手に渡っても、筒井筒の相手から贈られた恋文だとごまかさせるように細工を施して。

 予想を超える真実の全容に、マーニャは震えるてのひらをきつく握り締めた。

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