魔女の復讐〈5〉

 ちくちくとまぶしさが瞼を刺す。

 マーニャは身じろぐと、うっすら目を開いた。

(あったかい)

 布団の温みとは別に、だれかにぎゅうと抱き締められている。故郷にいたころ、幼い弟妹が寝床にもぐりこんできたのを思い出して頬が綻んだ。それにしては、たくましくて力強い腕だが――

 我に返って瞬くと、白い光を帯びてきらめく美貌が目の前にあった。

 滑らかな真珠色の頬、そこへ濃い影を落とす金翠の睫毛。わずかに開いたくちびるからこぼれるあどけない寝息を感じた瞬間、マーニャは悲鳴を上げそうになった。

(ななな、なんでリデルが一緒に寝てるの!?)

 必死に記憶を掘り起こすと、フレデリケが会いにきてくれたことを思い出した。泣いている彼を慰めているうちに、また眠ってしまったのか……

 途端に自覚した感情が甦り、ぶわりと耳の先まで熱くなる。なんとか腕の中から抜け出そうともがいていると、フレデリケが小さく唸った。

「……ん」

 豊かな睫毛がふるりと震え、蜂蜜色の瞳が現れる。

 思わず凍りついたマーニャをぼうっと映したかと思うと、不意にとろけるように笑み崩れた。

「…………おはよう、マーニャ」

 腰が砕けるということを、マーニャは生まれてはじめて経験した。

 恐怖よりももっとおそろしい痺れがぞくぞくと脳天まで走り抜ける。瞬きどころか呼吸すら忘れたマーニャは、これ以上ないほど赤い顔を枕に突っ伏した。

(いやぁぁぁぁ――ッ!?)

 出会ったときから、どこか妖しい美しさを帯びた少年だった。だが、この凄まじすぎる破壊力はなんだ。直視することさえ恥ずかしくてたまらない。今すぐここから逃げ出したい!

「マーニャ?」

 そんな彼女の心境など知らず、フレデリケは無邪気にすり寄ってくる。いっそう深く抱き寄せられ、マーニャは悶死寸前だった。

「どうしたの? どこか痛むのかい?」

 しかし訊ねる声は不安そのもので、顔を上げずにはいられなかった。なんとか首を横に振ってみせると、フレデリケはふにゃりと笑った。

(あああもおううう、そんな優しい顔で笑わないでぇぇぇッ!)

 おまけに頬ずりまでされて意識が飛びかけたとき、コンコンと扉が叩かれた。

「シスター、起きていらっしゃいますか? 失礼しますね」

 ひと言断ってから入室した治療師は、寝台の上の余計な人物に目を見開いた。

「やあ、テア。おはよう」

 どうやら顔なじみらしいフレデリケは、親しげに彼女を愛称で呼んだ。鶯色のドレスを纏ったテティアは深々とため息をついた。

「……おはようございます、フレデリケ様。いつの間に忍びこんだんですか」

「きみが自分の部屋に戻ったのを見計らって」

 名残惜しげにマーニャを解放し、フレデリケは起き上がると寝台の端に座り直した。淡い薔薇色のドレスには皺が寄ってしまっているが、少しも頓着するそぶりはない。

 彼のいる反対側までやって来たテティアは再び嘆息し、マーニャに声をかけた。

「おはようございます、シスター。気分は悪くありませんか?」

 こくりと頷くと、額にてのひらを当ててきた。薄い唇に笑みが浮かんだ。

「微熱も下がったみたいですね。喉の痛みはまだしばらく続くでしょうが、じきに治りますよ」

 今度は謝意もこめて顎を引く。すると、きつく片手を握られた。

「……ありがとう、テア」

 フレデリケは押し殺した声で呟いた。マーニャはそっと彼の手を握り返した。

「これがわたしの務めですから」

 そこで漆黒の眸が厳しく吊り上がった。

「ですが、重病人の、しかも女性の寝室に無断で入りこむのは感心しませんね。心配でたまらないのはわかりますが、シスターはようやく容態が落ち着いたばかりなんですから」

 フレデリケはばつの悪い顔でそっぽを向いた。それだけ自分に会いたかったのだと思うと、冷めていた熱が急上昇した。

「フレデリケ様、そろそろ出ていってください」

「やだ」

「……夜這いの上に着替えの覗きまでするつもりですか?」

 テティアは新しい着替えを用意してくれていたらしい。マーニャが身につけている白い寝間着は驚くほど肌触りがよく、まるでドレスのように繊細な装飾が施されていた。

(寝汗をかいたのかな。確かにちょっと気持ち悪いかも……)

 ちらりとフレデリケを窺うと、彼は悲しげに眉宇を曇らせた。美しいボーイソプラノが甘えるようにマーニャを呼ぶ。

「もう少し、ここにいさせて?」

(うっ)

 しょんぼりと垂れた耳としっぽが見えるような愛らしさに、少女の母性本能を激しく揺さぶった。テティアの咳払いに慌てて我に返る。

「だいたいフレデリケ様、護衛はどうしたんですか。当家の騎士がついていたはずですよね?」

「ちゃんと僕の部屋の前で立ってるよ?」

「……どこから脱け出したんですか」

 フレデリケは肩を竦めてみせるだけだった。テティアはこめかみを押さえた。

「お願いしますから、リヒター様やグリフィスの心労を増やさないでください。きっと大騒ぎになっていますよ」

 彼女の予言は的中し、荒々しい足音がすぐに廊下から聞こえてきた。入室の挨拶も慌ただしく扉が開け放たれる。

「おい、リデル!」

「やあグリフ。朝から騒々しいね」

 怒気もあらわに現われた幼なじみを、フレデリケは年季を感じさせる微笑で迎えた。グリフィスの表情が激しく引きつったところで、テティアで間に入った。

「気持ちはわかりますが、患者の前なので堪えてください」

 グリフィスはぐっと押し黙ると、斬りつけんばかりの勢いでフレデリケに詰め寄った。

「とにかく、部屋に戻れ。なんのための護衛だと思っているんだ」

「今はきみがここにいるじゃないか」

「~~っ、今すぐつまみ出すぞクソガキ!」

 マーニャはぽかんとふたりを見比べた。

 ふてくされた顔を隠しもしないフレデリケは少年にしか見えないし、青筋を立てるグリフィスも血の気の多い若者だ。意外なほど年相応な男の子たちの姿だった。

「前科持ちのきみに言われたくないよ。地下組織の残党に捕まったテアを助けるために、待機命令を無視して単身乗りこんだ従騎士はだれだったっけ?」

「ばっ、俺の話は関係ないだろう!」

「しかも怪我を口実に、テアに看病してもらうって建前で部屋に連れこ――」

 バンッ、と鋭い音が上がった。

「……いい加減にしてください」

 小卓を叩いたテティアは、頬を薄赤く染めてふたりを睨んだ。

 グリフィスは気まずそうに視線を逸らし、力ずくでフレデリケを抱え上げた。途端に毛を逆立てた猫のような罵倒が上がるが、かまうことなく扉に向かう。

「下ろせよ、馬鹿! 脳筋ムッツリ!」

「うるせぇ、黙ってろもやしっ子。……シスター、たいへん失礼いたしました」

「あーもー! マーニャ、また来るからね! 絶対来るからね!」

 ぎゃいぎゃいと騒ぎながら令嬢と騎士は去っていった。唖然とするマーニャに、テティアが申し訳なさそうに言った。

「本当にすみません、シスター。フレデリケ様もフレデリケ様ですけど、グリフィスもまったくもう……」

 頬に手を当てて呟く彼女は、なんというか――とても色っぽい。

(テティアさんって、グリフィスさまの恋人なのかな)

 ただの使用人が若君を呼び捨てにできるだろうか? 先ほどの話を聞く限り、彼女はグリフィスの大切なひとなのだろう。

 マーニャの視線に気づいたテティアは、パッといっそう顔を赤らめた。

「し、シスター、手伝いますから体をきれいにしましょう。それと、屋敷の者に頼んで重湯を用意してもらいました。召し上がれそうですか?」

 言われてはじめて空腹に気がついた。少なくとも一日以上何も食べていないのだ。自然と唾液が滲み出し、マーニャは頷いた。

(リデルに余計な心配をかけたくない)

 必ず会いにくると言ってくれたが、また脱走騒動を起こさせるわけにもいかない。

まずは心と体を立て直すことが、マーニャの取りかかるべき仕事だった。

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