魔女の復讐〈4〉

 甘いような苦いような、不思議な匂いがする。

 マーニャは雲のようにふわふわと漂っていた。最初は苦しくて、痛くて、熱くて、獣のような声を上げて暴れたが、くり返し何かを飲まされるうちに少しずつ苦痛が和らいでいった。

 時折、だれかに話しかけられたような気もするが、体の内側に絡みついた熱に苛まれるマーニャには何を言われているのか理解できなかった。

 けれど、手を握り締めるてのひらの強さだけは、はっきりとわかった。

(――リデル)

 拡散していた意識がふっと焦点を合わせる。

 水面に浮き上がるように目を覚ましたマーニャは、ゆっくりと瞬いた。途端に喉の奥が引きつったように痛む。

「……ル……?」

 掠れた声で呼んでも、フレデリケの姿は見当たらなかった。

 マーニャはぼんやりとあたりを見回した。

 見たこともないような美しい部屋だった。濃い水色の壁には繊細な唐草模様が白く浮かび上がり、床に敷き詰められた深みのある青色の絨毯にもよく似た図柄の刺繍が散りばめられている。

 乳白色に磨き抜かれた木製の調度品。見上げると、寝台の上には大きな天蓋まで乗っていた。

 紗の覆いが掛けられた窓から射しこむ陽が、やわらかく室内を照らしている。

(まるで、おとぎ話に出てくるお姫さまの部屋みたい)

 まだ痺れているような頭でそんなことを考えていると、正面の扉が開いた。

「ああ、よかった」

 現れたのは、見知らぬ若い女性だった。まだ少女と呼べる年頃かもしれない。

「目が覚めたんですね」

 水差しと小さな桶を抱えてやってきた彼女は、色素が抜け落ちたような面にほんのり笑みを浮かべた。うなじで束ねた長い髪も真っ白だ。マーニャを見つめる双眸だけが嘘のように黒い。

 中性的な顔立ちをしているが、飾り気のない藍色のドレスに包まれた肢体は成熟した女らしい輪郭を描いている。寝台の脇の小卓に水差しと桶を置くと、少女は指の長い手を伸ばしてそっとマーニャの額に触れた。

「まだ少し微熱が残っていますが、じきに下がるでしょう。どこか痛かったり、苦しいところはないですか?」

「……ぁ、の、と……」

 しゃべろうとするたびにヒリヒリと喉や口腔が疼く。たまらず咳きこんだマーニャの背中を優しく撫でられた。

「無理に声を出そうとしなくていいですよ。口の中の粘膜がひどい炎症を起こしているんです。薬が効いているはずですから、熱と一緒に収まるので安心してください」

 少女は小卓の上に置いてあった吸い飲みに水を注ぐと、口元に当ててくれた。ふた口三口なんとか嚥下し、マーニャはおそろしいほどやわらかい枕に頭を沈めた。

 ついでに清潔な綿布で口元まで拭ってもらい、眉尻を下げて目礼する。

 少女はひっそりと苦笑した。

「気にしないでください、患者の看護には慣れていますから。……自己紹介がまだでしたね。わたしはエンデル伯爵家にお仕えしている、治療師ちりょうしのテティアと申します」

 治療師とは、おとぎ話の時代から息づく民間医療の伝承者だ。百の薬と千の毒について識り、いにしえの秘技を受け継ぐ垣根の上の賢者魔法使い

 ――エンデル伯爵家の使用人ということは、ここはその邸宅なのだろうか?

 そもそも、あの晩餐からいったい何がどうなったのか?

「……あっ……」

 なんとか体を起こそうとするが、腕に力が入らず布団に崩れ落ちてしまった。慌ててテティアが姿勢を直してくれる。

「無理をなさらないでください。ようやく毒が抜けきったばかりなんですから」

 マーニャは目を見開いた。

 テティアは眉宇を曇らせ、「あなたは毒を飲まされたんですよ」と言った。

「正確には、フレデリケ様を狙って杯の縁に塗りこまれていた毒を酒と一緒に飲んでしまったんです。即効性の毒でしたが……致死量まで至らなかったのが幸いでした。すぐにあなたが嘔吐したのと、処置が間に合ったおかげで一命を取り留めたんですよ」

 ――シスター・リュシアが、フレデリケに毒を盛ろうとした。

 マーニャは震える手で掛布を握り締めた。当たらないでほしかった予感は的中してしまったのだ。

 そこへ、扉を叩く音が聞こえた。テティアはちらりとマーニャを見てから、「どうぞ」と答えた。

「テア、シスターの容態は……」

 扉を開けたグリフィス・ローイ・エンデルは、マーニャと目が合うと口をつぐんだ。身につけているのは騎士の装いではなく、貴族の若者らしい平服だ。

「ちょうど意識が戻られたところです。熱もだいぶ下がりましたし、もう大丈夫でしょう」

「そうか……それはよかった」

 テティアの報告にグリフィスは碧眼を細めた。彼女の傍らまでやって来ると、恭しくマーニャに一礼する。

「お久しぶりです、シスター・マーニャ。無事に目を覚まされて安心いたしました。――そして、身を挺してまで我が友をお救いいただいたこと、心より感謝を申し上げます」

 すると、彼の言葉に倣うようにテティアも姿勢を正して深々と頭を下げた。マーニャは目を丸くしてふたりを見つめるしかない。

 頭を上げたグリフィスは表情を引き締めた。

「無関係のあなたを巻きこんでしまったのは、フレデリケや我々の失態です。ここは我がエンデル家が所有する別荘で、あなたに危害が及ぶことは決してありません。どうか安心して、ゆっくり養生なさってください」

「……ぁ、の」

 マーニャが身を乗り出すと、すかさずテティアが体を支えてくれた。

「リ、ェ……ル……は……?」

 懸命な問いかけにグリフィスは目を瞠り、すぐに微笑んだ。

「フレデリケもあなたと一緒に保護しました。今はご両親の許に行っていますが……大丈夫、あいつは無事です」

 全身からくたりと力が抜けた。テティアの腕に縋りつき、マーニャはこみ上げてくる安堵に丸めた背をわななかせた。

(神さま、ありがとうございます)

 彼がこの世から失われずに済んだことが、ただただ嬉しかった。

 苦しそうにしゃくり上げるマーニャの肩を、テティアが労わるように抱き寄せた。

 年上の少女からは、あの不思議な香りがした。もしかしたら薬草の匂いなのかもしれない。

「テア、シスターを任せてもいいか? 俺は閣下にお知らせしてくる。何かあったらリヒト義兄上に伝えてくれ」

「わかりました。お気をつけて」

「頼んだぞ。シスター・マーニャ、失礼いたします」

 グリフィスは再び一礼すると、足早に部屋をあとにした。

「さあ、まだ熱が下がりきっていませんから、もう少し休みましょう」

 促すような言葉に、マーニャは涙を拭って頷いた。テティアに手伝ってもらい、もう一度水を飲んでから寝台に横たわる。

(なんだか……すごく眠い)

 あたたかい布団にもぐりこんだ途端、ふわりと意識がほどけていく。

 緊張が抜けたせいか、マーニャはすぐに優しい闇に包みこまれた。




 再び瞼を開けると、マーニャは暗中にいた。

(どれぐらい寝てたんだろう……)

 何度も瞬くと、濃い青の闇に沈んだ室内の様子がぼんやりと浮かび上がった。夜の気配に満たされた部屋はひどく静かだった。

 静寂にうとうととまどろんでいると、扉が開く音が聞こえた。一瞬、細い光が射しこむ。忍ぶような足音はテティアのものだろうか。

 枕辺に立った人影が、震える声で呼んだ。

「――マーニャ」

 マーニャは息を呑んだ。

 彼の長い髪がふわりと揺れる。修道院の生活でわずかに荒れてしまった指先がマーニャの頬に伸ばされた。

「…………リ、デ……」

 とっさに片手を重ねると、薄闇の向こうでフレデリケが微笑んだ。吐息が触れ合うほどの距離で、「うん」と優しく頷いてくれる。

「僕だよ、マーニャ」

「……っ、ふ」

 わっと涙が溢れ出す。マーニャは力いっぱい腕を伸ばし、フレデリケの首にかじりついた。

 肩に腕が回され、痛いほど抱き締められた。

「本当にごめんね、マーニャ」

 少女の髪に頬を寄せ、フレデリケは苦しげに言った。彼の肩が小さくわなないていることに、マーニャは気づいた。

「傷つけて、危険な目に遭わせて……守れなくて、ごめん……ッ」

 思わず頭を振った。すべて自分が勝手に行動した結果だ。そのことで気に病んでなどほしくなかった。

 マーニャもまた、フレデリケを守りたかっただけなのだから。

 手探りに彼の頬へ触れると、指先がかすかに湿った。泣かないで、とくちびるだけでささやく。

 ほのかに光る金色の瞳を覗きこむと、こつりと額が重なった。

「お願いだから、いなくならないで」

 声を潤ませて懇願する少年に、マーニャは大きく頷いた。フレデリケが少女の肩に顔を埋めた拍子に、ふたりはそのまま寝台に倒れこんだ。

 仔猫の毛のようにやわらかい髪を撫でながら、マーニャは切ないほどの愛しさに目を伏せた。

(神さま、どうかお許しください。あたしは修道女失格です)

 だれよりも、何よりも、今ここにいるフレデリケが大切だった。

 罪深いほどにこのひとが好きだと、思った。

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