魔女の復讐〈3〉
――フレデリケと話をしよう。
決意したものの、とうとう捕まえられないまま晩餐の刻限になってしまった。
修道女たちは食堂に集まり、食卓に並んだ年に一度のご馳走に目を輝かせている。食事当番の修道女たちが給仕を終えて各々の席についたところで、マザー・アンゼリーネの呼びかけに揃って祈りを捧げた。
(どうしよう……)
シスター・アデリラと一緒に剥いた芋の浮いたスープを匙で掬いながら、マーニャはちらりと隣を盗み見た。
フレデリケは白い指で優雅にパンをちぎって口に運んでいる。パンを食べる姿すら絵画のなかの令嬢のようだ――などと見とれている場合ではない。
「あ、あの、シスター・フレデリケ」
「……何か?」
感情の読めない金色の瞳が向けられる。口元は柔和に微笑んでいるというのに、まったく親しみのこもっていない表情だ。
マーニャは精いっぱいの笑顔を広げた。
「い、いつもよりパンがやわらかくて、おいしいですね」
フレデリケはフ、と吐息を揺らした。
「ええ、そうですわね。――けれどもシスター・マーニャ、その発言は清貧を旨とする修道女としていかがなものでしょう? たとえ見習いといえど、わたくしたちは欲心を捨て信仰の道に生きることを志した身。そのような者が日々の糧を物足りぬとでも言いたげな言動を取るのは、あまり褒められないふるまいかと」
「あっ、あたしは別にそんなつもりじゃ!」
滔々と返されたあまりの物言いに、マーニャは思わず匙を落としかけた。フレデリケはさも咎めるように眉根をひそめ、いっそう冷ややかに続けた。
「それに、食事中の私語は慎むべきですわ。特に、今宵の席は春の女神の恩恵に感謝を捧げる神聖なものなのですから」
一方的に切り捨てられ、マーニャは唇を噛み締めるしかなかった。フレデリケは何事もなかったかのように食事に戻っている。
(す、すっごく頭に来る……!)
これほどまでに異性を腹立たしく思ったことがあるだろうか。近所の少年たちにいじめられたときも、弟たちに度の過ぎたいたずらをされたときも、じりじりと肚を焙られるような怒りなんて覚えなかったというのに――張り飛ばしてやりたい澄まし顔というのはこういうことかと、マーニャの思考はいつになく物騒だった。
(そりゃあ、あたしだって嫌いだなんて言っちゃって悪いと思うけど、だからってここまでてのひらを返したみたいに当たらなくったっていいじゃない。何よ、本当は好き嫌いが激しくて、一番苦手なニンジンが出るとこっそりあたしの皿に移すくせに! 今まで黙って食べてあげてたけど、今度はシスター・アデリラにちくってやるんだからっ)
シスター・アデリラには譲ってやれと言われたが、こうもすげない態度を見せつけられては譲れる余地も削られる一方だ。マーニャはすっかり匙の先で押し潰された芋を口に放りこむと、悔しさと一緒に咀嚼した。
(僧房に戻って、ふたりっきりになってからが正念場ね……なんとしても話し合いに持ちこまなくっちゃ!)
もはや仲直りをするのではなく決闘に挑むような気迫だが、彼女はまったく気づいていなかった。いつになく勇ましい表情の少女に、周囲の修道女たちは微妙な困惑を漂わせていた。
つつがなく晩餐は進み、あらかた食器が空になったところでマザー・アンゼリーネが傍らの筆頭修道女に声をかけた。
「シスター・リュシア、そろそろ聖酒のご用意を」
「はい」
シスター・リュシアは頷くと、近くにいた古参の修道女たちとともに席を立った。途端にざわめく修道女たちを、マザー・アンゼリーネが苦笑混じりにたしなめる。
「皆さん、今年も大公家のご厚意により貴重な菫酒をいただきました。新しき年のはじまりを祝い、またいっそうの安寧を祈願し、春の女神の芳しき恵みを賜りましょう」
やがて戻ってきたシスター・リュシアたちの手には、酒の詰まった瓶が一本ずつ抱えられていた。
大公家より直々に下賜された酒を扱うということで、給仕を務めるのは決まって高位の修道女らしい。下位の修道女たちは食卓に伏せられていた小さな杯をひっくり返し、注がれる酒を恭しく享受した。
見習い修道女たちの許へやってきたのはシスター・リュシアだった。
フレデリケの纏う空気がわずかに硬化する。マーニャも知らず唾を飲み下した。
「失礼します」
ふたりの様子には気づいていないのか、シスター・リュシアはいつもどおりの薄い表情だった。楚々とした仕草で最初にマーニャ、次いでフレデリケの杯を酒精で満たしていく。
菫の花畑に迷いこんだような、濃密な香りが広がった。
(匂いだけで酔っちゃいそう……)
確かにこれは媚薬とされて当然のような、甘美で、どこか艶めかしい芳香だ。なぜか落ち着かない気分に陥ったマーニャの前で、酒瓶を下げようとしたシスター・リュシアの腕がフレデリケの杯に当たった。
「あっ」
杯はあっけなく横倒しになり、食卓の上に水溜まりを作った。一瞬、沈黙が落ちる。
「ああ、なんてこと……」
シスター・リュシアは口元を押さえて目を見開いている。最後に勧杯を受けたフレデリケの分はもう残っていないのだ。
「お気になさらず、シスター・リュシア」
フレデリケはにっこりと微笑むと、隠しから取り出した手巾でこぼれた酒を手早く拭き取った。真っ白な布地がたちまち菫色に染まった。
「本当にすみません……そうですわ、どうぞわたしの分をお呑みになってください」
「いいえ、そんな――」
慌てて断ろうとするフレデリケにかまわず、シスター・リュシアは自分の杯を取ってくるといつにない押しの強さで差し出した。
「大公家の皆様は、きっとあなたのことをお想いになってこの御酒をご用意されたのでしょう。どうぞ、そのご厚情を味わいなさりませ」
告げる言葉は微笑ましい響きに満ちているのに、マーニャは薄ら寒い予感を抱かずにはいられなかった。フレデリケを見つめる紅茶色の瞳には、見覚えのある昏い熾火がちろちろと揺らめいている。
唐突に、閲覧室で聞いた台詞が頭をよぎった。
――どんなに時が経とうと、過去を過去にできぬ者もいるのだと。
(シスター・リュシアは……)
まなざしを張り詰めさせたフレデリケは器用に表情だけを綻ばせ、「ありがとうございます」と杯を受け取った。筆頭修道女からの申し出を断りきれないと判断したのだろう。
シスター・リュシアが足早に席に戻ると、マザー・アンゼリーネが食堂を見渡して手前の杯を手に取った。
「それでは皆さん、どうぞ杯を」
修道女たちも各々の杯を高く掲げる。だがフレデリケの手がためらうように止まっていることに、マーニャだけが気づいた。
(あれを呑んじゃいけない)
とっさにフレデリケの指先から杯を奪い取る。息を呑んで振り向いたフレデリケに、マーニャは自分の杯を押しつけた。
「マッ……」
「だめよ、なんでもないふりをして」
鋭くささやいたのと、乾杯の合唱が上がったのは同時だった。マーニャは勢いよく杯を呷った。
「マーニャッ!」
悲鳴じみたフレデリケの声が響き渡った。
香りも色も他と変わらぬ酒は、口に含んだ瞬間に粘膜が爛れるような味がした。
音を立てて杯が床に転がる。それを追いかけるように、少女の華奢な体がくずおれた。
(何、これ……)
溶けた鉛を呑みこんだような激痛が臓腑に浸透していく。
マーニャは口元を両手で押さえてのたうち回った。びくびくと全身が痙攣し、喉の奥から熱の塊がこみ上げてくる。
「――ッ、がはっ」
血混じりの吐瀉物がぶちまけられた。フレデリケが必死に自分の名前を叫んでいる。
マーニャは霞む意識のなか、汚れた手をさまよわせた。
(リデル……)
痛いほどの強さで手を捕らえられた。たちまち安堵が胸を満たし、マーニャは思わず笑っていた。
(あなたが、こんな苦しい思いをしなくてよかった)
傷ついてほしくなかった。どんな理由があっても、彼がつらい目に遭うなんていやだった。
修道院に来た日、マザー・アンゼリーネに言われたことを思い出す。
神を知り、そして生涯の愛を捧げるに値するような尊い存在を見つけなさいと。
それは、きっと――
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