魔女の復讐〈2〉
迎春祭の最終日。
どこか浮き立った空気が漂う修道院の中、マーニャの周囲にだけどんよりと暗雲が立ちこめていた。
顔を合わせる修道女のだれもがぎょっとして体調の心配をするほどだ。そのたびになんでもないとごまかしているが、あまり意味を成していないかもしれない。
「シスター・フレデリケと喧嘩でもしたのですか?」
シスター・アデリラの直球の質問に、マーニャは芋の皮を剥く包丁を危うく滑らせかけた。
厨房では本日の食事当番である修道女たちが晩餐の支度に追われていた。春の訪れを祝う特別な席ということもあり、菫酒がふるまわれる晩餐は常よりも豪勢だ。食事当番のひとりに数えられていたマーニャは、厨房の隅で大量の芋を無心に剥いている途中だった。
そこへ、いつものように腕まくりをしたシスター・アデリラが「これもお願いしますね」と籠に山盛りになった野菜を運んできた。思わず嫌みか意地悪だろうかと考えてしまったマーニャへ、なんの脈絡もなく先ほどの質問が投げつけられた。
「えっ……と?」
「この間までいつでもどこでもべったりくっついていたのに、昨日あたりからまったく目も合わせなくなったじゃありませんか。あなたは今にも倒れそうな顔で黙りこんでいるし、シスター・フレデリケはおそろしいほど行儀がいいし、まったく気になってお勤めになりませんよ」
シスター・アデリラは呆れ顔で首を横に振った。どうやら、彼女なりに気遣ってくれているらしい。
うろうろと視線をさまよわせていると、おもむろに芋をひとつ手に取り、どこからか持ってきた包丁で皮を剥きはじめた。
「あ、あの……」
「いくらなんでもこの量をひとりでやれなんて言いませんよ。あなただけに任せていたら明日の朝食分になってしまいますから」
村娘だったマーニャよりも慣れた手つきで芋を丸裸にしていく。ひとつ、ふたつと見事に皮を剥かれた芋が籠に放りこまれていくのをぽかんと眺めていると、「手が止まっていますよ」と隙なく注意が飛んだ。
慌てて包丁を動かしながら、マーニャはおそるおそる礼を言った。
「あの、ありがとうございます」
「いいえ、別に。それで喧嘩の原因はなんですか?」
視線は手元に向けたまま、シスター・アデリラは容赦なく突っこんでくる。やはり言わないと駄目なのだろうかと思いつつ、しょぼしょぼと答えた。
「えっと……その、リデ……シスター・フレデリケに、嘘をついたって怒られちゃって……」
「あなたが? 彼女に?」
「その、あたしはそんなつもりは……なかったわけじゃないんですけど……でも、シスター・フレデリケだってあたしに内緒にしてることがあるのに……」
たちまち先日の夜の出来事が甦る。
冷ややかな金色のまなざし、嘲る声と裏腹の優しさ、首筋に触れるてのひらの感触。塞がらぬ胸の傷が真っ赤な悲鳴を上げる。
マーニャは湿り気を帯びた視界をごまかすように何度も瞬いた。
「それで……と、友達じゃないって言われたんです……」
唇を噛んで俯いた少女へ、シスター・アデリラはやはり呆れたような目を向けた。
「『売り言葉に買い言葉』ということわざを知っていますか?」
「へ?」
「はたして、あなたたちの関係を友人という括りに収めていいのかどうか迷いますが……要はお互いに意地になってしまっただけでしょう。あなたは妙なところで頑固ですし、シスター・フレデリケも矜恃の高い方ですからね。まあ、あなたが先輩なのだから今回は譲ってさしあげなさい」
あまりにもあっさりとした忠告に、マーニャは「でも」と言い募った。
「でも、そんなに簡単な話じゃないんです」
「わたしが聞いた限りでは、友人だと思っていないと言われたことにあなたが傷ついているように思えますが?」
剥き終えた芋を更にひとつ籠に入れ、シスター・アデリラは目を眇めた。
「あなたはシスター・フレデリケを気が置けない相手だと思っていたのに、そうではないと否定されて傷ついた。ですが、頭を冷やしてから真意なのかどうか確かめましたか?」
「……いいえ」
「ではまず、シスター・フレデリケから逃げずにお訊きなさい。その上であなたがどうしたいのかを伝えなさい」
マーニャは睫毛を上下させた。
「あたしが、どうしたいか?」
「ええ。あなた自身どう思っているのか、きちんと彼女に打ち明けなさい。まず向き合う態度を取らなければ、和解はできませんよ」
シスター・アデリラの言葉は淡々としていながら、どこか沈みこむような重みがあった。彼女は新しい芋に包丁の刃を当てながら、ぼそりと呟いた。
「相手が向き合える場所にいるのなら、後悔する前に向き合うべきです。気づいたときにはもういなくなってしまったというのでは遅いのですよ」
(向き合える、場所)
肩が触れるほど近くにいるのが当たり前になっていた。
さんざんからかわれ、恥ずかしい思いも味わい尽くしたが、フレデリケの笑顔は灰色の修道院に射しこんだ陽の光のようにきらきらとまぶしかった。とても、とても、特別なものだった。
彼と過ごした記憶が胸にあれば、これから先も心穏やかに生きていけると思えるほどに。
(祭が終わったら……もう向き合うこともできなくなる)
マーニャはぎゅっと芋を握る手に力をこめた。
「シスター・アデリラも……友達と喧嘩しちゃったことがあるんですか?」
「――え?」
中年の修道女は驚いたように顔を上げた。途端に視線が尖る。
「わたしのことは関係ないでしょう」
「す、すみません。つい、その……け、経験談なのかなって」
マーニャは小さく縮こまった。うっかり滑った口を今からでも縫いつけたい。
皮剥きの手を休めることなく、シスター・アデリラは苦々しい顔で言った。
「わたしの場合は友人ではなく、婚約者です」
(お、思いっきり逆鱗だった……!)
青ざめるマーニャに対し、彼女は見透かしたように鼻を鳴らした。
「あなた方が噂していることは知っていますよ。確かに、わたしは結婚を約束していた方と夫婦になることなく神にお仕えする道を選びましたが――あいにく、彼は黴が生えたような堅物の騎士でした。二十年前の内乱でも、正統な君主たる大公殿下を裏切ることなどできぬと、最期まで忠節を守り通したぐらいでしたからね」
「え……」
予想外の答えに言葉を見失う。規則的に芋の皮を剥く音がやけにはっきりと耳を突いた。
「彼は前大公派の軍に加わって戦死したのです。もちろんわたしは反対しましたよ。公弟殿下――今上にこそ道理があるのは火を見るより明らかでしたから。ですが、彼は大公家の騎士として忠義を尽くすべきだと……たとえ地獄に続く道だとしても主君の供回りを務め上げねばならぬと言い張って、戦地へ赴きました」
皮剥きの音がやんだ。
シスター・アデリラは記憶の底から思い出の断片を掬い上げるように、そっと瞬いた。
「正直に言って、わたしは彼が嫌いでした。なかなか縁談に恵まれず、なんとか両親が見つけた相手は理想と気位だけは立派な貧乏騎士。彼も嫁かず後家の年増などかわいいと思えなかったのでしょう。わたしの顔を見ればしかめっ面ばかり浮かべていましたよ。別れのときも、『夫にもなっていない男のことなどさっさと忘れてしまえばいい』なんて嫌みだけを言い残して」
マーニャは小さく息を呑んだ。
(嫌いな男のことなんてきれいさっぱり忘れて――)
あのとき、フレデリケはどんな顔をしていたのだろうか。
かすかな吐息を洩らし、シスター・アデリラは口元を歪めた。
「それなのに、なぜでしょうね。忘れることなどできないのですよ。どうしてもっと違う風に接せられなかったのか、みっともなく泣いて縋ってでも彼を引き留められなかったのか……後悔ばかりが募って、彼の菩提を弔うなどという建前を翳して修道院に逃げこみました」
「シスター・アデリラ……」
かける言葉に迷っていると、彼女は再び鼻を鳴らして「気遣いなど不要です」と突っぱねた。いつの間にか皮剥きを再開している。
「わたしのようにずるずると二十年も後悔を引きずるような人間になりたくなかったら、努力なさい。あなたには――あなたたちには、まだそれが許されているのですから」
マーニャはきゅっとくちびるを引き結び、頷いた。
「……ありがとうございます」
小さく告げられた感謝に、シスター・アデリラは何も言わなかった。
だがその横顔は、ほんの少し優しかった。
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