第五話

魔女の復讐〈1〉

 新年を迎え、早くも一週間が経とうとしていた。

 華やかな迎春祭の間も、俗世から隔たれた修道院では元旦を過ぎれば静かな日常が戻ってくる。まだ髪を下ろしていない見習い修道女にとって、だれもが無邪気な道化になって浮かれ騒ぐ祭の音を遠く耳にするしかないこのころが修業期間で最もつらいそうだ。ふと気づくと春の陽が射す窓の向こうへ目を遣っているということが、マーニャも何度かあった。

 しかし、厳格な修道院でもめでたき春の言祝ぎがないわけでもない。祭の最終日の晩餐には、ヴァイオレットの花から醸造された特別な酒がふるまわれる。菫は桜草と並んで春の使者とされ、その花の色は青の季節の象徴にもたとえられる。

 美しい青紫に透きとおる香り高い酒は、一方で大帝国の上流階級で媚薬としてもてはやされたという逸話があった。古の隠者たちがいったい何を思って聖俗の両面を併せ持つ酒を呑むようになったのかはわからないが、今でもあらゆる修道院で密かな伝統として息づいているらしい。

 先輩修道女たちはいかにその芳香や味がすばらしいかをうっとりと語り、青の第一月の七日を指折り数えて待ち焦がれているようだった。だが、マーニャは彼女たちと同じ心境にはなれなかった。

(もうすぐ祭が終わっちゃう。そうすれば――)

 陽気な音楽も特別な酒も、すぐそこまで迫った別れへの哀切は拭えなかった。胸を塞ぐ鉛のような感情は日に日に重みを増し、とうとう息が詰まって死んでしまうのではないだろうかとすら思えた。

 一日の勤めを終えて僧房に戻ったマーニャは、櫛で髪を梳く手をふと止めた。

 巴旦杏色の髪はまっすぐ肩を流れ落ち、胸に毛先が触れるほどの長さだ。これが顎の下まで短くなるのだと考えると、きりきりと胸の奥を引き絞られるようだった。

(なんて未練がましいの……)

 故郷から持ちこんだ数少ない品のひとつである櫛を握り締め、マーニャはくちびるを引き結んだ。

 こんなままで無事に終生誓願を果たし、一人前の修道女になれるのだろうか。本当に神への愛だけを胸に生きていけるのか?

(神さま、聖母さま、御使いさま、どうか教えてください。あたしはどうすればいいんでしょうか)

 タペストリーのなかで微笑む聖家族を縋る思いで見つめていると、コンと衝立が叩かれた。

「マーニャ、ちょっといい?」

 フレデリケの声に心臓と一緒に飛び上がり、マーニャは寝台の上から転げ落ちそうになった。あたふたと体勢を直していると、ちらりと金翠の頭が覗いた。

「……大丈夫かい?」

「だっ、だっ、大丈夫! ご、ごめんね、どうぞ……」

 フレデリケはわずかに迷うような表情を浮かべたが、するりと衝立の内側へ体を滑りこませた。マーニャと同じくすでに寝間着に着替えていたが、豊かな髪はやわらかくほどけたままだ。

 彼が寝台の端に腰を下ろすと、か細い灯りがふわりとその上を滑った。

「どうしたの?」

 どきどきと収まらない鼓動を宥めながら尋ねると、金色の双眸が冷たく光った。

「今日、閲覧室でシスター・リュシアと何を話してたんだい?」

「え……」

「どうしても片づけなきゃいけない課題があるから自習してくるって言って書庫に行ったよね? それなのに、戻ってきたときにはシスター・リュシアと一緒だった」

 ごくりと喉が鳴った。薄く張った氷の上に立っているような緊張感にじわじわと指先が凍えていく。

 フレデリケは片手をついて身を乗り出し、かすかに寝台を軋ませた。

「マーニャ」

 ささやく声音はどこかおそろしかった。マーニャは寝間着の胸元を握り潰した。

「……別に、いつもみたいに勉強を教えてもらってただけだよ。たまたまシスター・リュシアが閲覧室にやって来て、それで……」

「それで、この間のことを聞いたりした?」

 さらりと重ねられた問いに言葉が詰まる。フレデリケは冷ややかに目を細めた。

「そう」

「なっ、何も聞いてない!」

 耐えきれなくなったマーニャは声を荒げた。

「課題でわからないところがあったから、教えてもらっただけだよ!」

「嘘をつくのは、悪いことなんじゃなかったっけ?」

 フレデリケはゆるりと口端を吊り上げ、意地悪く小首を傾げてみせた。目の奥が熱くなっていくのを感じながら、マーニャは彼を睨んだ。

「リっ、リデルだって、嘘をついてるじゃない」

 一瞬、フレデリケの瞳が揺らぐ。彼はわずかに視線を逸らした。

「……僕の嘘と、今回の件は話が違うよ」

「違わないわ。リデルだって、あたしに隠し事があるんでしょ?」

 まるで栓が抜けたように激しい感情が溢れ出す。それは荒々しい礫になってマーニャの口から飛び出し、フレデリケに叩きつけられた。

「どうしてシスター・リュシアを気にするの? あなたとどういう関係があるの? あたしはリデルの友達なのに、何も教えてもらえないの!?」

 フレデリケの顔がぐっと歪んだ。

 ひと息に距離を詰められたかと思うと、マーニャは敷布の海に沈んでいた。金翠の髪が視界を覆い、頬に触れる。

 まるでこの世のものではないような美貌が目の前にあった。

「ひっ……」

 とっさに少年の体を押し返そうとするが、逆に両肩をきつく押さえこまれてしまう。その力の強さに、マーニャは小さく震えた。

「リ、リデ……」

「――友達だって?」

 落ちてくる声はぞっとするほど温度に欠けていた。珊瑚色のくちびるがいびつに笑う。

「そんな他愛もないお世辞を、ずっと本気にしてたの?」

 少女の瞳が茫然と見開かれる。少年は、さも痛々しそうに眉宇を曇らせた。

「たかが見習い修道女風情が、僕の何をわかろうっていうのさ」

「リ、デル……」

「おこがましいにもほどがあると思わなかったのかい、シスター・マーニャ?」

 フレデリケの右手がするりと細い首筋に添えられた。触れるてのひらの冷たさに、マーニャの体が大きく跳ねた。

「なんで、そんなこと言うの」

「きみがあんまりにも僕を嘘つき呼ばわりするから、ひとつくらい本当のことを教えてあげようかと思ったんだよ」

 睦言を歌うような優しさで、フレデリケはマーニャの胸に容赦なく刃を突き立てた。小鳥の心臓よりもやわらかな少女の心は悲鳴と血飛沫を上げ、絶望という痛みにのたうち回る。

 ふつりと溢れた涙がこめかみを濡らす。フレデリケはそっと目を眇め、押し殺した声で言った。

「僕は、きみを友達だなんて思ってないよ」

 マーニャは息を吸いこみ、力いっぱい彼の胸を拳で叩いた。

「……っ、放して!」

 もう一度殴りつけると、フレデリケは詰まらせたような吐息を洩らした。拘束がゆるんだ瞬間に思いきり突き飛ばす。

 壁際まで後退り、マーニャは震えるばかりの身を抱き締めた。

「……きらい」

 涙と一緒にこぼれ落ちた言葉は止まらなかった。わんと耳の奥で激しく反芻し、膨れ上がる。

「リデルなんか、大っ嫌いよ!」

 フレデリケはのろのろと瞬き、小さく笑った。

「それはよかった」

 伏せた睫毛の下でくゆる翳りが見えたような気がした。

 すぐに酷薄な微笑に塗り替えられ、幻のように消えてしまう。

「祭が終われば、きみは清く正しい修道女様になるんだろう? なら嫌いな男のことなんてきれいさっぱり忘れて、大好きな神様のことだけ考えて生きていけばいいさ」

 乱れた髪を掻き上げ、フレデリケは寝台から下りた。マーニャに背を向けたまま、「ああ、そうだ」と思い出したように呟く。

「ひとつ忠告しておくよ。シスター・リュシアにどんなことを吹きこまれたか知らないけど、彼女には近づかないほうがいい。それこそ、『きみには関係ない』からね」

 マーニャは何も答えず、ただフレデリケの背中を睨み続けた。

「……おやすみ」

 ぽつりとひと言残し、彼は衝立の向こうに消えた。

 フレデリケの姿が見えなくなった途端、喉の奥から嗚咽がこみ上げてきた。マーニャは掛布の中に潜りこむと、枕に顔を埋めて激しくしゃくり上げた。

 悲しくて、悲しくて、溺れてしまいそうだった。

 心に刺しこまれた刃の鋭さが何もかも刈り取って、ただただどうしようもない激痛だけを刻みつける。忘れていたはずの悲しみさえ溢れ返ったように。

 その夜、すべてが眠りに沈んでも少女の泣き声がやむことはなかった。

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