聖女の落涙〈5〉

「ごめんなさいね。みっともないところを見せてしまって」

 力なく微笑んだシスター・リュシアに、マーニャはふるふると首を横に振った。

 ふたりは書庫から閲覧室の最も奥まった席に移動し、机を挟んで向かい合っていた。教本や筆記帳を広げていれば、いつもどおりの講義の光景だ。だが彼女の頬には、先ほどまでの涙の名残が薄赤く浮かんでいる。

 手巾を握り締めたシスター・リュシアは、ようやく落ち着いたものの、今にも消えてしまいそうな蝋燭の火のように悄然としていた。乱れた断髪がベールからこぼれているのもそのままに、紅茶色の眸はどこか虚ろだ。マーニャの不安は薄まるどころかひどくなるばかりだった。

「あの、やっぱりどこか具合が悪いんじゃないですか? 院長さまに言って、お部屋でお休みになられたほうが……」

「いいえ、大丈夫です」

 しかし、シスター・リュシアは小さく頭を振り、困ったように目を細めるだけだった。

 マーニャは眉根を寄せ、おそるおそる問いを重ねた。

「何か、あったんですか?」

 脳裏をよぎったのは、元日の出来事だった。泣き崩れる老婦人を抱き締める彼女の背中は、震えていた。

 ふっと、シスター・リュシアはかすかに息をついた。

「……シスター・マーニャ。確かあなたは、旧フェイナン子爵領の出身でしたね」

「え?」

 マーニャはきょとんと目を丸くした。シスター・リュシアは髪色より濃い睫毛を伏せながら、淡々と続ける。

「フェイナン子爵家は二十年前の内乱に前大公側に与した罪を問われ、改易されたと聞きます。旧子爵領は公国のなかでも昔から貧しく、領主が逆賊とされたがために領民たちの生活はよりいっそう苦しいものになったとか」

 ディッセルヘルム公国は南北の間で貧富の格差が激しい。

 緑豊かな丘陵や美しい湖沼地帯がある南部は大帝国時代から貴人の保養地として栄え、現代でも国の経済・文化の中心地である。

 対する北部は肥沃な土地柄とは言いがたく、いくつもの寒村が散らばるばかり。マーニャの故郷は、そのうちのひとつだ。

「は、はい。そうですけど……」

 シスター・リュシアの意図に戸惑いつつ、マーニャは肯定した。

 かつての領主は、現大公の支持者の多くに南部諸侯がいたことを理由に前大公に与したそうだ。同様の選択を取った北部諸侯は少なくはなかったと聞く。

 先の内乱には、長きに渡る南北の確執が根深く絡んでいた。

「恨んだことはありませんか?」

 尋ねる声は翳りを帯びて冷たかった。

 マーニャは小さく息を呑んだ。

「前大公の下に集った諸侯の大半は、建国のころより辛酸を舐め尽くした北部の領主たちでした。前大公の寵臣といわれたヴェレネルフ伯爵が北部諸侯の筆頭だった影響も大きかったのでしょう。彼は前大公を傀儡とし、その治世で北部の窮状をなんとか改善しようと試みたのです。……しかし結局は内乱での敗北によって逆賊となり、ヴェレネルフ伯爵をはじめ多くの前大公派が厳罰に処されました。北の民は、ますます貶められてしまった」

 紅茶色の瞳の奥で熾火のように何かが瞬いている。

 シスター・リュシアは机の上で手巾を握る手に力をこめた。生白い手の甲に骨の筋が細く浮かぶ。

「今では忠臣の鑑と呼ばれるグリーンヒル伯爵も、エンデル伯爵も、豊かな南部に領地を持つ諸侯です。あなたたち北部の人びとが飢えと屈辱に耐え忍んでいる間、彼らは国の英雄としてもてはやされ、陽の当たる場所でのうのうと生きてきた。憎いと、そう思ったことはありませんか?」

「そんな――」

 言葉を詰まらせる少女に、筆頭修道女は唇を歪めて笑った。

「……意地悪な質問をしてしまいましたね。あなたのようなひとが、怨恨など知るはずもないでしょうに」

 強張っていた両手をほどき、シスター・リュシアは眉宇を曇らせた。不穏な気配は感じられない、見慣れた思慮深い表情だった。

「ですが、どれほど時が経とうと二十年前の悲劇を忘れられぬひともいるのです。……先日、あなたとシスター・フレデリケが会った彼女のように」

「あのおばあさん……ですか?」

「ええ、彼女はわたしの古い知り合いです。わたしがまだ生家にいたころ、身の回りの世話をしてくれた乳母だったのですよ」

 マーニャは目を瞠った。

 シスター・リュシアは静かに語った。彼女もまた北部の生まれで、生家は故郷でそれなりに知られた旧家だったらしい。

 しかし内乱に巻きこまれた末に零落し、身内や使用人たちは戦火で命を散らした。乳母だった老婦人も我が子を喪ったのだという。

「生き延びたわたしは、縁故を頼ってこの修道院に入りました。乳母とは戦後間もなく別れたきりだったのですが……わたしがここにいることを聞きつけ、訪ねてきたのです」

「どうして……二十年も経って?」

 おそるおそる訊くと、シスター・リュシアは一瞬、口をつぐんだ。憂いが影となってまなざしに落ちる。

「彼女の夫君は内乱の折にひどい傷を負い、その後遺症に苦しんできたそうです。そしてとうとう、先の冬に……」

 マーニャはハッと息を吸いこんだ。老婦人を庇ったシスター・リュシアの言葉を思い出した。

(じゃあ、旦那さんが亡くなったことを知らせるために?)

 親代わりであった女性の夫なら、シスター・リュシアにとっても身近な存在であってもおかしくない。そんな大切なひとのようやく届いた消息が苦しみ抜いた末の無念の死だと知ったら、身も世もなく嘆き暮れるはずだ。

(さっきの涙は、それで――)

 いかに自分が不躾な質問をしたのか思い至り、マーニャは羞恥と後悔に顔を赤らめた。

「す、すみません。あたしってば何も考えずに軽々しく……」

「気にしないでください。わたしのことを心配してくださったのでしょう?」

 シスター・リュシアは表情を和らげ、手元の手巾にそっと視線を落とした。

「乳母から夫君の訃報を聞き、話をして……少し、動揺してしまったんです。夫君を亡くされたせいもあって、彼女のなかでは二十年前の出来事がまだ昨日のことのように感じられていて……ひどく混乱しているようでした」

 紫紺の腕の中で咽び泣く老婦人の姿が甦る。本当の名前を――過去を忘れてしまったのかとシスター・リュシアに問う声は、胸が締めつけられるほどに悲痛な叫びだった。

(だから、リデルを?)

 グリーンヒル伯爵家の末の令嬢が聖ベルティアナ修道院に入ったことは国中に知れ渡っている。あの際立つ美貌を前にすれば、フレデリケの素性を推測することは難くない。

 彼に向けられた煮え滾る憎悪の目は、家族の仇の娘だと思ったからなのか?

(そんな……だってリデルは内乱のときにはまだ生まれてなかったのに)

 出自だけで見知らぬだれかから憎まれなければならないなんて想像もできない。だが、フレデリケにとっては当たり前のことなのだ。だからあれほどの殺気にも表情ひとつ揺らさず、令嬢フレデリケとして平然とふるまってみせた。

 言い様のない歯痒さに、マーニャはぎゅっと膝の上で拳を握った。

「二十年という時間は、『まだ』というべきなのでしょうか。それとも『もう』というべきなのでしょうか」

 ぽつりとシスター・リュシアは言った。

「なぜ神は、平等の幸福をお与えくださらないのでしょうね」

「シスター?」

 遠くを見つめているような白い面には、なんの表情も浮かんでいなかった。すぐに彼女は微笑を薄く広げた。

「そろそろ戻りましょう。いつまでもこうしていては、シスター・フレデリケがあなたを心配するでしょうから」

「は、はい」

 やんわりと促され、マーニャはシスター・リュシアに続いて腰を上げた。小さな棘のような違和感がちくりと胸のどこかに刺さっている。

 筆頭修道女の笑みは、タペストリーに描かれた聖母に似ていた。

 たおやかで穏やかな、まるで型から取り出したような顔だった。

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