聖女の落涙〈4〉
――それはのちに、〈双獅子の変〉と呼ばれる。
二十年前、ディッセルヘルム公国で起こった史上最大にして最悪の内乱。色狂いの暴君だった〈首斬り公〉ユスティアーノに対し、異母弟のシュトラールが反旗を翻したことに端を発する。
諸侯は大公派と公弟派に分かれ、『それはまさに煉獄の絵図のようだった』と恐怖をこめて語られるほどの苛烈な戦いをくり広げたという。そして一年余にも及ぶ戦乱ののち、シュトラール自らの手によって〈首斬り公〉の首が落とされたことで終結した。
記録によれば、ユスティアーノの治世の後期にはいくつもの天災が重なり、国じゅうを大飢饉が襲った。以前より女色に耽溺するあまり政務の一切を放棄していたユスティアーノは、弟や伯父であるヴェルダ侯の再三の諫言に耳を貸さず、宮廷にはびこっていた奸臣どもによってわずかな食糧はあっという間に買い占められ、窮民のために開かれるべき義倉すらその魔手に落ちてしまった。
更には義倉の備蓄を高値で転売し、闇市に流す輩まで現れ、市井の混乱と荒廃はますますひどくなった。美しかったブランシェリウムは枯れ木のように朽ち果てた骸があちこちに転がり、疫病と暴力が蔓延し、獣と幽鬼がさまよう死の都と化した。
後宮に引きこもるユスティアーノの許へ直訴に赴いたヴェルダ候が反逆への断罪という理由で殺害された夜、ついにファルス家の兄弟の運命は分かたれたのである。
(〈首斬り公〉と今の大公殿下は、昔はとても仲のいい兄弟だった……大公家の紋章になぞらえて〈双獅子〉といわれるほど。だけどお兄様の前大公がだんだんおかしくなっていって……ついに内乱が起きてしまった)
人気のない書庫で、マーニャはひとり近代の歴史書を読み漁っていた。フレデリケにはシスター・リュシアからの課題を片づけなければならないのだと断っている。……本当はそんなに急がなくても大丈夫なのだが、どうしても彼のいないところで調べたいことがあったのだ。
(きっと神さまも呆れていらっしゃるわ……)
後ろめたさにくちびるを噛み締め、マーニャは本を書架に戻した。
こんなところで歴史書を紐解いたところで、今更の情報しか得られない。他にも近代の大公家や貴族についての伝記なども読んでみたが、澱んだ水瓶に手を入れて水晶の破片を探しているような気分だった。
だが、ほんの少しでも知りたかったのだ――フレデリケが抱えているものを。
彼が何から自分を遠ざけようとしているのか。わずかでも掴み取ることができれば、もっとフレデリケに近づけられるような気がした。書庫の蔵書にならば、彼を取り巻く環境や情勢について詳細な記述があるのではないかと考えたのだが……
(わかったことといえば、二十年前の内乱のいきさつと、そのときのグリーンヒル伯爵家やエンデル伯爵家の功績ぐらい。本当に今更なことばっかりだわ)
グリーンヒル伯爵家の隆盛が内乱の折に現大公の懐刀として活躍したことからはじまるのだという逸話は、マーニャのような平民ですら知っている。
当主ウィルバートだけでなく、長女のマリアーヌは公弟派の間での連絡役を担い、次女のイリシャは女だてらに騎士として剣を振るったという。三女のヴィアンカは優秀な魔導の研究者で、彼女が開発した高性能の魔導機関は戦後の復興をあらゆる面で助けた。美しいだけでなく稀代の才媛でもある三姉妹が国じゅうから熱狂的な支持を得ているのは当然のことだった。
(だからこそ、未婚の『末娘』が修道院に駆けこんだって大騒ぎになったのよね……)
マーニャはため息をついた。
そもそも、ただの見習い修道女に過ぎない自分が時代の寵児ともいうべき貴公子の秘密を解き明かし、あまつさえ理解しようなどと――思い上がりも甚だしいことだったのだ。
(もうとっくにわかってたのに……離れるって決めたのに……)
自分は、こんなにもあきらめの悪い人間だっただろうか。
姉の結婚が決まったときも、故郷に別れを告げたときも、運命なのだと受け容れることができたのに。悲しいけど不幸ではない、ありふれた人生だと自分を慰め、あきらめられたのに。
書架の影に埋もれ、マーニャは力なく項垂れた。修道院の一歩外に出れば、人びとは華やかな祭を楽しんでいるというのに、なんとみじめなのだろう。
そのとき、かすかな物音が聞こえた。
マーニャはハッと顔を上げた。書庫には自分しかいないはずだが、気づかぬうちにだれか入ってきたのだろうか?
音を忍ばせ、物音の聞こえたほうへ移動する。書架の間から顔を出すと、床に広がった紫紺の裳裾が見えた。
書架に縋りつくようにしてうずくまっている人物に息を呑む。
(シ、シスター・リュシア!?)
先日の一件が脳裏をよぎり、マーニャは思わず立ち竦んだ。しかし、ただならぬ筆頭修道女の様子に、もしや体調不良かと慌てて駆け寄った。
「シスター・リュシア、だ、大丈夫ですか!?」
紫紺のベールが揺れ、白い顔がマーニャを振り返る。その頬が濡れていることに気づき、マーニャはもう一度硬直した。
「シスター・マーニャ……」
シスター・リュシアの目の縁は痛々しいほど真っ赤だった。まるで少女のように儚い表情で、彼女はほろりと涙をこぼした。
「ど、どこかお加減が悪いんですか? あたし、だれか呼んできますっ」
激しく動揺しながら立ち上がろうとしたマーニャの腕を、震える細い指が引き留めた。
小さく首を横に振り、シスター・リュシアは懇願した。
「お願い、だれも呼ばないで」
「で、でも……」
一見すると貴婦人のような、だが節くれ立って肌の荒れた手に、痛いほどの力がこもる。マーニャは抗いきれず、ぺたりと床に座りこんだ。
「ごめんなさい。わたしは、大丈夫です。ただ、少し……」
シスター・リュシアは取り繕うような笑みを浮かべたが、すぐに失敗した。
薄いくちびるがわななき、ぱたぱたと雫が床に落ちる。マーニャの腕を放し、彼女は顔を両手で覆った。
「シ、シスター……」
声もなく泣き崩れる筆頭修道女を前に、マーニャはかけるべき言葉を失った。意味もなく両手をさまよわせていたが、はたと思いつき、尼僧服の隠しを探った。
「よ、よかったら使ってください」
ようやっと差し出したのは、隠しの中でちょっとよれてしまった手巾だった。シスター・リュシアはわずかに視線を上げると、くしゃりと顔を歪めた。
「……ありがとう」
受け取った手巾に額を押しつけ、いっそう肩を震わせる。マーニャは、ただそれを見つめていることしかできなかった。
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