聖女の落涙〈3〉
時間の流れを押し留めていた堰を切ったのは、フレデリケだった。
この場を離れたほうがいいかもしれないと考えていたマーニャの前に出ると、いかにもおそるおそるといった声音でふたりに呼びかけた。
「……シスター・リュシア? いかがなされました?」
(リデルっ!?)
さくりと土を踏む音に、シスター・リュシアが弾かれたように振り返る。忙しなく瞬く瞳がフレデリケを認めた途端、白皙の面が強張った。
「お話中に申し訳ございません。シスター・アデリラから、シスター・リュシアがわたくしとシスター・マーニャを呼びに行ったままお戻りにならないと聞いて……ふたりで探しに来たら、こちらからすすり泣く声がしたので――」
「す、すみません、シスター・リュシア、あの……」
フレデリケの後ろから飛び出したマーニャは、しどろもどろに取り繕うとしたが、視線と口を空回りさせるだけだった。涙目で顔を青ざめさせている見習い修道女を見遣り、シスター・リュシアは小さく息を吐いた。
「……いいえ、わたしこそ勝手なことをして皆さんにご迷惑をおかけしてしまいました。わざわざ手間を取らせてしまい、すみません」
「そちらのご婦人は?」
気遣うようなフレデリケのまなざしに、紫紺の腕の中の老婦人がびくりと震えた。鈍く光る金色の眸から庇うように、腕の主がやんわりと彼女を抱き寄せた。
「――先の冬に夫君を亡くされ、昨夜のミサからずっとそのご冥福をお祈りしていたそうです。わたしはこの方をお送りしてから戻りますので、シスター・アデリラにそうお伝えください」
いつもより平坦な口調には拒絶が滲んでいた。フレデリケは心得たように憂い顔で頷き、深々と一礼した。
「至らぬご無礼をお許しください。修業中の身ではありますが、神の御許に侍る者として心より夫君の御魂が安らかなることをお祈り申し上げます」
「お、お祈り申し上げます」
マーニャも慌てて頭を下げる。老婦人は押し黙ったままだった。
「それでは、失礼いたします。シスター・マーニャ、参りましょう」
フレデリケは優雅に尼僧服の裾を翻した。そのあとを追いかけようとしたマーニャは、ぎくりと硬直した。
シスター・リュシアにぴったりと張りついた老婦人が、まるで魔物に憑りつかれたような形相でこちらを睨んでいた。
皺に埋もれた眼窩の奥で、煮え立つタールのごとき激情がどろどろと渦巻いている。
怖気すら覚えるそれは、憎悪だった。
立ち竦んでしまったマーニャの手を、ひらりとフレデリケがさらった。そのまま果樹園の外まで連れ出される。
「リ、リデル……」
本館のそばまで戻り、フレデリケはゆっくりと振り向いた。困惑と恐怖が綯い交ぜになったマーニャの表情に眉をひそめる。
「大丈夫かい?」
つないだ手に優しく力がこもる。思わず握り返しながら、マーニャはこくりと首肯した。
「リデルは、平気?」
フレデリケは苦笑した。「平気だよ」というやわらかな応えに、ようやくぎこちなかった体から力が抜けた。
「ねぇ……リデル」
「なんだい?」
(あのおばあさんは――いったい、だれ?)
喉の奥に引っかかってしまったように言葉が出ない。マーニャはぎゅっと唇を噛んだ。
彼女はシスター・リュシアを『エリュシアーヌ』と呼んでいた。おそらく、『リュシア』は『エリュシアーヌ』の略称か愛称なのだろう。
もともと聖ベルティアナ修道院は高貴な女性の駆けこみ寺であり、落飾する以前の経歴などを伏せることは間々あった。そういった事情の詮索は暗黙のうちに禁忌とされており、だからこそシスター・リュシアが修道院へ入った経緯を知る者はいない。
シスター・リュシアも、かつてはエリュシアーヌという名の令嬢で、当時の知人と偶然再会したと考えればおかしくはない。けれど、老婦人のあの目は。
(あたし『たち』じゃない。呪い殺してやると叫ぶみたいに、じっとリデルだけを見てた……)
思い返すだけでぞっとするような殺気を、なぜ初対面の見習い修道女に向けたのか。あるいは――フレデリケが『グリーンヒル伯爵家の末娘』だと知っていたからこそなのか。
では、フレデリケ・エリアス・グリーンヒルに憎しみを抱く人物とつながっている『エリュシアーヌ』とは、何者なのだ?
「――マーニャ」
静謐な声が矢のようにまっすぐ落ちてきた。
俯けていた視線をハッと持ち上げると、フレデリケの口元から笑みが消えていた。
「きっと僕が覗き見なんて無粋な真似をしたから、あのおばあさんを怒らせてしまったんだよ。だからきみが心配する必要は何もない。……いいね?」
いつになく真剣な面持ちの彼を前に、マーニャは瞳を揺らした。これ以上の詮索はするなと言われているのだとわかった。
出会ってからはじめて、フレデリケに拒まれたのだ。
重ね合わせたぬくもりがこぼれ落ちていく。睫毛を震わせ、マーニャは小さく頷いた。頷くことしかできなかった。
(なんて馬鹿なんだろう……)
隣にいることが当たり前になりすぎた。友達になりたいと言ってくれたフレデリケから離れるはずがないと、傲慢にも思いこんでいた。
たった一度突き放されただけで、こんなにも打ちのめされるなんて。
「そろそろ戻ろうか。早くしないと雷どころか大嵐になりそうだ」
鮮やかな笑顔を広げ、フレデリケは歩き出した。金翠の髪がふわふわと踊る背中を、マーニャは縋るように見つめた。
口をつぐみ、目を塞いでも、胸の奥から沸き起こる暗雲を晴らすことはできなかった。
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