聖女の落涙〈2〉
新春の暁天に鐘の音が高らかに響き渡る。
生まれたての朝陽がブランシェリウムの街並を染めていく。雪雲は散り散りに去りゆき、透明度の高い空が広がっていた。
マーニャは澄みきった朝の空気を胸いっぱいに吸いこんだ。
「あけましておめでとう、マーニャ」
振り返ると、鼻の頭をうっすら赤く染めたフレデリケが微笑んでいた。炊き出し用の食材が詰まった籠を両手で抱えている。
「……あけましておめでとう、リデル」
同じく荷物を持つ腕にぎゅっと力をこめ、マーニャは小さく笑みを返した。フレデリケはその隣に並びながら、いたずらっぽくささやいた。
「作戦成功みたいだね」
「え?」
「きみに新年の挨拶をするのもしてもらうのも、僕が一番乗りになろうって決めてたんだ」
まるでスキップでもしそうな口ぶりにマーニャは頬を上気させた。幸運にも、寒さのおかげでフレデリケは気づいていない。
(……いけないわ、嬉しいなんて思ってる場合じゃないもの!)
夜が明けるまで、マーニャはひたすら考えた。そして決めたのだ――少しずつフレデリケと距離を取るようにしようと。
マーニャの終生誓願は迎春祭が終わってひと段落したら、という話だった。断髪を経て一人前の修道女として認められれば、見習いであるフレデリケとこんな風に親しく言葉を交わすこともできないだろう。僧房も別室に移り、ふたりの間には明らかな一線が引かれてしまうに違いない。
(そして騒動が収まれば、リデルは修道院から出ていっちゃう。……いざお別れというときになって、引き留めたくなったら……)
知らず俯き、きつく唇を噛んでいた。自覚したばかりの痛みがぎゅうぎゅうと心臓を締めつける。
(だめよ――リデルを、困らせたくない)
「マーニャ、どうしたんだい」
やわらかく耳元に触れた声に視線を上げると、フレデリケが眉をひそめて顔を近づけてきた。マーニャの肩がびくりと跳ねる。
「ど、どうもしてないわっ」
「……本当に?」
「本当だってば」
じいっと覗きこんでくる蜂蜜色の瞳からとっさに目を逸らす。今にもフレデリケのまなざしに捕まってしまいそうだった。
聖堂の前の小さな庭には、早くも炊き出しを求めて集まった人びとの姿があった。修道女たちが湯気の立つ大鍋からスープを掬って碗に注ぎ、パンや切り分けた果実をせっせと渡しているが、門の外まで続く列は途切れそうにない。
「遅いですよ、ふたり揃って!」
マーニャたちを迎えたのは、きつく眦を吊り上げた中年の修道女だった。年若い先輩たちがこっそり呼んでいる『嫁かず姑』のあだ名にふさわしい剣幕に首が竦む。
「す、すみません、シスター・アデリラ」
「まったく、こんな忙しいときに」
シスター・アデリラは大仰にため息をついた。
尼僧服の上に前掛けをつけ、豪快に袖をまくってふくよかな腕をあらわにした姿は、修道女というよりも農家のおかみさんと表現するほうがしっくり来る。ただし、彼女は若いころに未婚のまま修道院に入っており、噂によれば婚約者に浮気されて末に逃げられたらしい。
(昔からこの性格なら、逃げられちゃってもしょうがないのかも……)
密かに失礼なことを考えていると、「ところで」とシスター・アデリラが尋ねてきた。
「シスター・リュシアがどこにいらっしゃるのか知りませんか?」
「え?」
マーニャとフレデリケは顔を見合わせた。
確かに、炊き出しの指揮を執っているはずの筆頭修道女が見当たらない。
「あなたたちに準備を申しつけてくると仰ったまま、ずっとお戻りにならないのですよ。いったい何をしていらっしゃるのか……」
シスター・アデリラはぶつぶつと文句を洩らしている。見習い修道女たちは再び互いの顔を見遣った。荷物を運ぶように言いつけたのは別の修道女で、ここに来るまでの間、シスター・リュシアとは行き合っていない。
ふとフレデリケが目を細め、それから申し訳なさそうに表情を曇らせた。
「まあ、それではすれ違いになってしまったのですね。きっとわたくしたちのことを探してくださっているに違いないわ」
彼はひょいっと荷物をシスター・アデリラに押しつけ、ついでにマーニャが抱えていたものを渡すと、素早くマーニャの片手をさらった。
(リ、リデル!?)
「早くシスター・リュシアにお詫びしなければ。わたくしたちでお呼びしてまいります」
「ちょっ……お待ちなさい!」
ふたり分の荷物によろめくシスター・アデリラに微笑を残し、フレデリケはマーニャの手を引いて軽やかに遁走した。止める間もなく道連れにされたマーニャはあわあわと叫んだ。
「リデルってばなんてことしたのよ! きっとあとで雷を落とされるわ!」
「じゃあシスター・リュシアを放っておいていいのかい?」
「そ、それは……」
庭を抜け、聖堂の裏手までやって来ると、フレデリケは歩みをゆるめて振り返った。じとりと半眼で睨んでくる。
「気になるんだろう?」
「……うん」
マーニャは決まり悪く頷いた。優秀で模範的な修道女であるシスター・リュシアが、大事な勤めの最中、だれにも言づけずに行方をくらませるなんておかしい。いったい何かよからぬことが起こったのではないかと、むくむくと不安が膨らむばかりだった。
「それなら、探したほうがいい。僕もちょっと心配だしね」
フレデリケは肩を竦めてみせると、つないだ手を強く引いた。途端に触れ合うてのひらや指を意識してしまい、マーニャは慌てて俯いた。顔にどんどん熱が上っていくが、どうしてか彼の手を振りほどけない。
(こ、こんな調子で本当にリデルから離れられるのかしら……)
のぼせたようにくらくらする頭で悩んでいると、不意にフレデリケが足を止めた。
ぶつかりそうになった寸前で踏み止まったマーニャは、ハッと顔を上げた。
聖堂の裏手から本館や僧房の並びの奥まで回りこみ、ふたりは修道院の最奥にたどり着いた。修道女たちが農業に勤しむ畑や、小さいながらも果樹園や薬草園などがある。今日の炊き出しでふるまわれる果実は、先日ここで収穫したばかりのものだ。
「リデル?」
どうしたのと尋ねかけ、口元に人差し指を当てる仕種を返される。フレデリケが視線で促した先、畑の奥に立ち並ぶ果樹の向こうにちらりと人影が見えた。
(シスター・リュシアと……だれ?)
フレデリケに誘われるまま、そろそろと果樹園に踏み入った。少し離れた木陰に隠れ、慎重に様子を窺う。
すらりとした後ろ姿は、たしかに見慣れたシスター・リュシアのものだった。彼女と向かい合っているのは、マザー・アンゼリーネよりもいくらか年下の老年の女性。
くすんだ暗色のドレスに毛織りのショール、頭髪を隠すようにスカーフを巻いた姿は、市井でよく見かける老婦人といった風体だ。おそらく炊き出しを求めてやって来た参拝者だろう。腕には手提げの籠を持ち、被せた布切れの下から見覚えのあるパンが覗いている。
彼女は切迫した表情でシスター・リュシアに何事かを訴えていた。もしかしたら聖職者たる修道女に悩みや懺悔を打ち明けたかったのかもしれない。だとしたら自分たちはひどく無粋で不謹慎なことをしでかしていると気づき、マーニャは急いでフレデリケの袖を引いた。
しかし、フレデリケはびくとも動かなかった。きつく張り詰めたまなざしでふたりを凝視している。さすがに焦れたマーニャが「リデル」と小さくたしなめるのと、甲高い老女の声が静寂を切り裂いたのは同時だった。
「あなたの真の御名をお忘れですか、エリュシアーヌ様!」
マーニャは息を呑んだ。
老婦人の足元に籠が落ち、ばらばらと中身が転がった。スカーフに包まれた皺深い顔を悲痛に歪め、彼女は目の前の修道女に縋りついた。
「なんとおいたわしい……エリュシアーヌ様……」
老婦人がくり返す名前は、耳慣れない、まるで貴族の令嬢のような響きだった。
そう呼ばれているのが他ならぬシスター・リュシアなのだと、たおやかな腕が泣き崩れる老婦人の背中に回されるのを見て、ようやく理解した。
紫紺のベールに遮られ、彼女がどんな表情をしているのかはわからない。だが儚げなほどに細い肩は、まるですすり泣いているかのように震えていた。
マーニャは言葉もなく、その光景を見つめていることしかできなかった。
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