第四話

聖女の落涙〈1〉

 その年の最後の夜は、去りゆく冬の女王がこぼした惜別の涙のような淡雪が降った。

 公都の空は深い闇に閉ざされ、人影のない街路を照らすガス灯や家々の窓辺の光だけがしんしんと揺れていた。

 大晦日の宵、人びとは家族やごく親しい友人たちとともに我が家の暖炉の前で憩い、あるいは教会や修道院のミサに参じ、心静かに祈りを捧げて過ごす。一年のはじまりが最も華やかであるのなら、一年の終わりは最も厳かで慎ましい。

 聖ベルティアナ修道院でもまた、修道女たちと一般の参拝者によるミサが執り行われた。マザー・アンゼリーネと懇意にある老神父が招かれ、この一年を振り返る説法を穏やかに語った。いくつかの聖歌を全員で歌い、最後に感謝と祈りの言葉を唱える。

 ミサは一時間ほどで終了し、参拝者たちの多くは帰路に就いたが、なかには門前に設けられた簡易式の祭壇に聖燭キャンドルを捧げて祈り続けるひとの姿もあった。こうして夜が明けるまで祭壇の前に侍り、元日の朝に修道女たちがふるまう炊き出しの料理を『その年はじめての神様からの賜りもの』として求める参拝者もいるのだ。

 一方、参拝者がいなくなった聖堂には修道女たちが残っていた。ミサが終わったあとも聖堂にこもり、ひと晩じゅう祈り明かすことが修道院の慣わしだった。

 普段とは比べものにならない数の灯りに照らされ、聖堂は黄昏のようにまばゆかった。さざめく金色のベールに包まれた聖家族の像はいっそう神秘的で美しく、マーニャは感嘆とともに祭壇を振り仰いだ。

 自然と思い浮かぶのは、故郷の家族のことだった。

 厳しい冬がようやく終わり、雪解け水が里の川を潤せば、忙しない種蒔きや放牧の季節がやってくる。すぐ下の弟はうんと背が伸びて、母や姉の手伝いに精を出しているに違いない。

 どうか今年は実り豊かな年になるように。幼い妹たちが、一年前のマーニャがたどるはずだった運命をたどらぬように。

(姉さんとあのひとが幸せになりますように)

 胸を刺す痛みは遠く、だから素直に願うことができた。マーニャはしっかりと両手を組み合わせて目を瞑った。

(神さま、あたしはもう何もいりません。だって、あたしのわがままはもう叶えていただいたから)

 瞼の裏でちらちらと光の残影が踊る。誘われるようにそっと目を開いて瞳を滑らせると、もっと鮮やかな輝きが傍らにあった。

 青いベールからこぼれる金翠の髪は聖なる光を纏っていっそう艶めき、すべらかな白い頬さえ金粉をはたいたようだ。豊かな睫毛を伏せ、珊瑚色の唇をやわらかく結んで俯く横顔は、極彩色の天井画から抜け出した天使を連想させる。

(天使なんて大袈裟かしら。……でも本当なら、こうやって隣り合うことすらありえない雲の上のお方なんだわ……)

 とんでもない事情を抱えているにせよ、フレデリケは誉れ高き伯爵家の御曹司であり、ゆくゆくは義兄である大公殿下の側近となってこの国の未来を担う存在なのだ。女子修道院に身を隠しているのは一時的な処遇であり、いずれは外の世界へ、れっきとした貴公子へと戻る。

 ――年が明けたら、マーニャが正式な修道女になるように。

 ぎゅうっと胸の奥を鷲掴まれたようだった。覚えのある、だが何倍もの痛み。マーニャは驚きと困惑に表情を曇らせた。

(淋しい、なんて)

 フレデリケと隔たれ、別れるのだと思うと、悲しくて苦しくて頭がいっぱいになる。それ以上のことを考えようとすると怖くなる。

 自分の心の奥底に真っ暗な穴がぽっかりと空いたようだった。

「……マーニャ?」

 小さな呼びかけに我に返ると、フレデリケが訝しげにこちらを見ていた。

「どうかなさったの?」

「う、ううん、大丈夫よ」

 慌てて笑ってみせるが、彼の柳眉は険しく吊り上った。瑞々しい朱唇が言葉を形作ろうとしたとき、祭壇の前にマザー・アンゼリーネが進み出た。

 マーニャは内心ホッとした。舌打ちが聞こえたような気がするが、フレデリケはいかにも殊勝な面持ちで前へ向き直っていた。

「神の御許に集いし我が姉妹よ」

 女子修道院長マザーの証である灰色の尼僧服に身を包んだ老修道女は、齢を重ねてなお朗々とした声を響かせた。どちらかといえば小柄な女性だが、たゆまぬ背筋と研ぎ澄まされた薄紫の双眸がその姿を何倍にも大きく見せる。

 大公家のお生まれであり、かつてヴェルダ侯妃という正真正銘の貴婦人であった方だ。しかし悪名高い前大公によって夫君は処刑され、子息も二十年前の内乱の際に亡くなられたためにヴェルダ侯爵家は事実上の断絶となってしまった。

 内乱が終息し、現大公殿下が即位されてから養子を取って家門を再興する話が持ち上がったが、すでに副院長だったマザー・アンゼリーネは信仰の道を選んだのだ――と、先輩修道女たちがこっそり教えてくれた。

「今年もまた最後の夜を無事に迎えることができました。皆さんの日々の敬虔な姿勢を神が確かに見届けられたからこそだとわたくしは実感しております」

 マザー・アンゼリーネはいくぶんまなざしを和らげ、修道女たちを見回した。年嵩の者たちは楚々と目礼し、まだ若い娘たちはもじもじと視線を交わし合う。

 その上を滑ったマザー・アンゼリーネの瞳に、ふと翳りが差した。

「人びとがつつがなく一年を過ごせるまでの月日が経ちました。……先の内乱からちょうど二十年。戦後に生まれ育ち、あの暗い混迷の時代を知らぬ若い世代も増えました。しかしこの修道院には、内乱で身近な方を喪い、シスターとなった者も未だ多くいます」

 聖堂にざわめきが走った。

 年長のシスターたちは苦悩や哀切に満ちた表情を浮かべ、なかには嗚咽を堪えるように肩を震わせている者もいる。マーニャは戸惑いながらその様子を見つめた。

(二十年前の内乱って、暴君だった〈首斬り公〉を今の大公殿下が反乱を起こして討伐したっていうものよね。諸侯がまっぷたつに割れて、グリーンヒル伯爵――リデルのお父さまは大公殿下の味方になってお助けしたって聞いたけど……)

 前大公ユスティアーノはたいそうな色狂いで、数多の女性を後宮に拐かし、飽きたと言っては次々に妃たちの首を刎ね飛ばしたという逸話から〈首斬り公〉とおそれられた。執政においても暴虐の限りを尽くし、その所業に心を痛めた異腹の弟君がとうとう反旗を翻した。戦いは熾烈を極め、麻のように乱れた公国を怒りと嘆きの火が呑みこんだという。

 マーニャが生まれ育った村は、前大公に靡いた貴族の領地にあった。かつての領主は内乱後に処断されたそうだが、『賊軍』の領地であったという事実は拭えぬものだった。戦乱によって根こそぎ奪われた土地にしがみつき、不作や天災に耐えながら、人びとは貧しさの底で生きている。

 物心ついたときから、そこがマーニャの故郷だった。

 闇深い夜、家々の戸を人買いが叩く。貧困に喘ぐ小作人のなかには、密かに我が子を売り渡す者もいた。翌日、いつものように遊ぼうと集まった子どもたちの顔ぶれがひとつふたつ足りない――そんなことも一度や二度ではなかった。

(小さなころに聞いた〈首斬り公〉の物語は、まるでおとぎ話みたいだった。……だけど本当は、あたしにも関わりのあることだったんだわ)

 故郷を出て、俗世から切り離された場所に身を置いて、マーニャははじめてこの国で生まれ育った自分を理解した。

 大陸のいち小国に過ぎないディッセルヘルム公国の、ちっぽけなちっぽけな村娘。濁流に翻弄される木の葉のような存在だった自分を。

 そして今、神の御手によって世情の大河から掬い上げられようとしている。髪を切り、紫紺の尼僧服を纏うことを許されれば――

 思わずフレデリケを振り向くと、彼はじっとマザー・アンゼリーネを見据えていた。とろりと甘い蜂蜜色の瞳は、しかし幾百の灯火の揺らめきに底冷えするほどの光を孕んでいる。

(あたしの知らない、まるで真冬みたいな世界に立ってる男の子の眸だ……)

 何度も目にし、いつしかマーニャの胸に焼きついたまなざし。その見つめている先は、世の流れを生む大きな渦の中心だと、気づいてしまった。

 本当に――手の届かないひとだったのだ。

「時の流れにも癒えぬ傷、再びくり返さぬために忘れてはならない過去の過ちがあります。だからこそ、わたくしたちは祈りましょう。新たな一年がよりよいものになるように、ようやく訪れた秩序と安寧が末永く続くように……喪われた方々の魂が平安であるように、祈りを捧げ、心をこめて神への奉仕に努めましょう」

 マザー・アンゼリーネは胸の前で聖印を切った。修道女たちもそれに倣い、最も短い祈りの詞を復唱する。

 静かな余韻に耳を澄ませながら、マーニャはひっそりと瞼を閉じた。隣にいるはずのフレデリケの気配がなぜか遠い。

 降りしきる淡雪のような切なさが、胸の内側に冷たく滲んだ。

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