近衛騎士の恋文〈3〉

 フレデリケはすこぶる不機嫌だった。

 マーニャが街の若者に絡まれ、助けてくれた近衛騎士に送り届けられたと聞かされた途端、彼の周囲がどっと冷えこんだ。シスターたちの前では心配そうにふるまっていたが、金色の瞳にはとんでもなくおそろしいものが激しく燃え盛っていた。触れてはいけない逆鱗に触れてしまったのだと知って、マーニャは夕食も喉に通らなかった。

 夕べの祈りを終えて自室に戻るころには、すっかり死刑宣告を受けた囚人の心地だった。

(どっ、どうしよう。すごく怒ってる……!)

 のしかかってくるような沈黙に、マーニャは神に救いを求めた。衝立の向こうから吹きこんでくる冷気はどんどん勢いを増している。グリフィスから預かった『恋文』は手元にあり、これをフレデリケに渡さなければ無事に一日を終えられないのだ。

(勇気を出すのよ、マーニャ。大丈夫、あなたならできる!)

 口の中で祈りの詞を呟いて聖印を切ったマーニャは、寝間着の上にしっかりとショールを羽織った。呼吸を整え、そっと衝立越しに呼びかける。

「リ、リデル……まだ起きてる?」

「……なんだい?」

「あっ、あの、話したいことがあるんだけど……そっちに行ってもいい?」

 一拍の沈黙を置いて、フレデリケは静かに答えた。

「いいよ」

 マーニャはおそるおそる衝立の奥を覗きこんだ。

 寝台の上には寝間着姿のフレデリケが片足を乗せて座りこみ、膝に頬杖をついてこちらを見ていた。

 波打つ豊かな髪は一本にゆるく編まれ、邪魔にならないよう肩から垂らされている。姿かたちは可憐な少女だというのに、無造作な居住まいやじっと注視してくるまなざしは隙のない野良猫のようだった。

(やっぱりリデルは男の子なんだ。だってこんなにかっこいいもの……)

 そこまで考えて、マーニャははたと我に返った。今、なんだかものすごく恥ずかしいことを思っていなかったか?

 かぁぁっと熱が駆け上がってくる。先ほどまで戦々恐々していたことをすっかり忘れて百面相を披露しているマーニャへ、フレデリケは訝しげに尋ねた。

「……僕に何か用があったんじゃないのかい?」

「ごっ、ごめんなさい」

 マーニャはわたわたと『恋文』を取り出すと、「あ、あのね」とつっかえそうになりながら話を切り出した。

「今日、街で絡まれたところをある騎士さまに助けていただいて……」

「――へぇ、それで?」

 気温が急降下した。

 もはやフレデリケから吹雪が吹きつけてくる勢いだった。思わず震え上がったマーニャは、神さま聖母さま救世主さまどうかお力をお貸しください! とひたすら念じてくじけそうな心を叱咤した。

「そ、その騎士さまからあなた宛のお手紙を預かってるの。エンデルのグリフィスから、い、愛しき黄薔薇の君に……って」

「グリフィスだって?」

 フレデリケは片眉を跳ね上げ、マーニャの差し出した『恋文』を睨み据えた。

 ひと目で高級だとわかる真っ白な封筒には、赤い蝋を垂らした上から紋章を刻んで封が施されている。

 蝋にくっきりと浮かんでいるのは、野薊シッスルの花と交差するふた振りの剣――〈ファルスの霜剣〉エンデル家の者だけに許された図柄だった。

「……そいつがどんな外見をしていたか憶えてる?」

「え? ええっと、赤茶けた短髪と明るい緑……ううん、青が混じったような目をしてた。背はあんまり高くなかったけど、騎士さまらしいたくましい体つきだったと思う。近衛騎士の姿で……目つきは鋭いけど、とても丁寧で優しい話し方だったわ」

 グリフィスの容姿を思い浮かべながら説明すると、フレデリケはまずいものを食べてしまったような顔でため息をついた。

「十中八九、僕の知ってる『グリフィス』で間違いないみたいだね。エンデル伯爵家の人間で赤毛なのはご当主の弟だけだもの」

 フレデリケはマーニャから『恋文』を受け取ると、封筒の端を切って一枚の便箋を抜き出した。ふわりと漂う果実の香り。

(……オレンジ?)

 便箋に香料を染みこませているのだろうか。まるで本物の恋文のようだと感心しかけたマーニャは、フレデリケが開いた便箋を見て目を丸くした。

(何も――書いてない?)

 封筒と揃いの白い便箋には、ひと文字も記されていなかった。戸惑いを隠せないでいるマーニャに対し、フレデリケはあっさりしすぎているほど冷静だった。

「マーニャ、灯りを貸してくれるかい」

「えっ、あ、うん」

 言われるままに手燭を持ってくると、フレデリケは便箋を火に向かって差し出した。

 ぎょっとするマーニャの前で、燃えるか否かという距離で紙面を炙っていく。

「炙り出しって知ってる?」

「う、ううん」

「よくある隠蔽の技法だよ。酒や橙の果汁で文章を書いても白紙にしか見えない。ところが火で炙ると文字が浮かび上がるんだ――こんな風にね」

 マーニャは息を呑んだ。熱された便箋の上に、ゆっくりと焦げ茶色の文字が滲み出していく。

「まあ、暗号文じゃなくて私的な秘密の手紙に使うような、お遊びめいた技法だけどね」

 言いながらフレデリケは姿を現した『恋文』に目を落とした。しかし、素早く文字の羅列を追っていく金色の瞳はやけに鋭く、マーニャは何かとんでもないものを彼に渡してしまったのではないかと怖くなった。

「リ、リデル……?」

 フレデリケは黙りこんだまま柳眉をひそめた。かと思うと、再び便箋を火に向け――端から燃やしはじめた。

「リデル!?」

「中身は憶えてるから大丈夫だよ」

 便箋はたちまち黒く縮んでいった。フレデリケは封筒も同じように焼べ、あとには燃え滓しか残らなかった。

「よ、よかったの? 大事なお手紙だったんじゃ……」

「大事だから燃やす必要があったんだ。読まれてもわからないと思うけど、念のために、ね」

 燃え滓を握り潰したフレデリケは、それよりも、とマーニャに向き直った。

「怪我はない?」

「え?」

「ひどいことされてないだろうね? 西区にきみひとりで行くって聞いて――だからいやだったんだ」

 まるで見えないだれかを睨むような目で、しかしマーニャを気遣わしげに見つめてくる。

 白く、マーニャのそれよりも少し大きなてのひらがためらいがちに肩に触れた。

「……僕がついていければよかった。僕が、きみを守りたかったのに」

 フレデリケは悔しさの滲む声で呟いた。火明かりに光る双眸の奥には、不安と安堵が同じぶんだけ揺らめいていた。

 それを見つけた瞬間、マーニャは力が抜けるようにすとんと安心感の真ん中へ落下した。

 怯えも悲しみも必要ない。なぜならここにあるのは、マーニャを案じ、労り、慰めたいと望む、あたたかな優しさだった。

 引き寄せられるように手を伸ばしていた。

「マーニャ?」

 首元に抱きつかれたフレデリケは上擦った声を上げた。やわらかな髪に頬を寄せ、マーニャは泣きたいような心地で言った。

「あたしも、リデルに助けてほしかった」

 フレデリケの肩が跳ねる。

「怖かったよ。リデルが一緒にいてくれたらどんなに心強いだろうって……リデルだったらきっと簡単に切り抜けられると思ったら、少しだけ勇気が出たの」

「…………立ち向かったりしないでいいよ、きみは女の子なんだから」

 そっと、ぎゅっと背中に腕が回された。とくとくと駆け足のような鼓動を刻んでいるのは、どちらの心臓だろうか。

 マーニャは思い知った。世界じゅうのだれよりもフレデリケは自分の味方であり、自分はフレデリケの味方だと。

 おそろしいものはたくさんある。けれど、彼が隣で手を握っていてくれたら、きっと世界の終末すらまっすぐ受け容れられる。

「不安にさせてごめんね」

「……うん」

「心配してくれて、ありがとう」

「うん」

 こめかみに寄せられた唇の感触に、マーニャは伏せた睫毛を震わせた。この世すべての歓びと幸福が、少女と少年の腕の中にあった。

「きみが、無事でよかった」

 タペストリーに描かれた聖母だけがふたりの姿を穏やかに見下ろしていた。

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