第三話

近衛騎士の恋文〈1〉

 水路を白く覆っていた薄氷が溶け出すころ、公都は年の瀬の慌ただしさに包まれていた。

 磨いたような白壁の家々が整然と連なるブランシェリウムの街並は、〈白亜の都〉の呼び名にふさわしい大帝国時代の面影を漂わせている。いっそう真白く染まった冬の都は厳かな静寂を纏い、宗教画のなかの聖女を思わせる。だがひとたび祭の季節を迎えれば、まるで恋を知ったばかりの少女のように華やぐのだ。

 家々の軒先では、春を表す青色の地に陽光の黄金で喜びと祈りのことばを縫い取った垂れ布が鮮やかに翻る。街のあちこちに飾られた淡黄色の花は、春女神の先触れとされる桜草プリムローズだ。迎春祭の開幕を告げるパレードでは、春の精霊に扮した娘たちが大きな花車の上から桜草の花を振りまいて人びとに祝福を授けるのだという。

 軽やかな音色と歓声のなか、花の雨が降り注ぐ光景はどれほど心躍るものだろうか。だが、どんなに街路の石畳に敷き詰められた淡黄色の絨毯を想像しても、目にすることのない虚しさが残るだけだ。

 聖ベルティアナ修道院では、大晦日の晩に一般参加が許されたミサが開かれる。年が明けた早朝には院内の庭で炊き出しが行われ、参拝者や貧しい人びとにあたたかなパンやスープ、甘い果実などがふるまわれる。修道女たちは仕事に追われ、祭を楽しむ暇などない。

 下っ端の見習いであるマーニャはその筆頭で、祭を一週間後に控えた今からコマネズミのように走り回っていた。今日も炊き出し用の材料を注文してくるようにおつかいを申しつけられた。

 薄曇りの空の下、街はすっかり祭の雰囲気に包まれていた。

 行き交う人びとの足取りは軽く、笑い出すのを我慢している子どものような表情を滲ませている。春めいた明るい色合いの装いをちらほらと見受ける一方、深い青の尼僧服にくすんだ灰色のケープを重ねたマーニャの格好はやけに人目を引いた。

 見習いとはいえ修道女が市井を歩くことなど滅多にない。おまけに、公都じゅうの話題をさらったグリーンヒル伯爵令嬢の出家騒動が世間の記憶に強く焼きついており、マーニャは不躾なまでの好奇の視線に追い回される羽目になった。

(シスター・リュシアが仰っていた『じゅうぶん気をつけるように』ってこのことだったんだわ……!)

 出かける間際、先輩修道女が柳眉をわずかにひそめていた理由を思い知ったマーニャは泣きたくなった。最近ではすっかり行動をともにするようになったフレデリケは、早々に別の仕事を命じられていた。身を隠している張本人がのこのこ姿を見せるわけにはいかないからだろう。

 マーニャは肩を縮ませて足早に大通りを抜けると、人気の少ない路地を選んで逃げこんだ。

 ブランシェリウムは中央を貫く中大路なかおおじによって東西に分かれている。公都の最東端に大公家の方々がおわします玉蘭宮マグノリア・パレスがあり、それを囲むように各政庁や上流貴族の邸宅が集まっている。対する西区は庶民の街で、洗練された東区に比べるとごちゃごちゃと路地が入り組んで雑然としていた。

 聖ベルティアナ修道院は東区の外れにあり、注文先の商店には中大路を渡って西区の中へ入らなければならない。シスター・リュシアに描いてもらった地図を頼りに、マーニャはおもちゃの迷路のような裏町を進んだ。

(ええっと、さっきあのお店の角から西区に入ったから……まっすぐ行って、六番目の十字路を右に曲がればいいのかしら?)

 土地勘のないマーニャにもわかりやすいよう、地図には丁寧な説明が添えられていた。これなら迷わずに済みそうだと安心した矢先、「ねぇ!」と若い男の声が背中に当たった。

 思わず飛び上がりそうになって振り返ると、あまり上等とはいえない身形をしたふたりの若者が立っていた。

ちょうど少年と青年の狭間に差しかかった年頃で、まくり上げたシャツの袖から伸びる腕はいかにも労働者らしくたくましい。

「うわ、本物の修道女だ」

「どこ行くの? よかったら俺たちが案内してあげようか」

 マーニャは青ざめた。

 彼らの日に焼けた顔に浮かんだ表情は、子どもの頃にさんざん泣かされたガキ大将の意地悪い笑みによく似ていた。

「け、結構です。道はわかってますから……」

「そんなつれないこと言わないでさぁ、少しくらいつき合ってよ」

 若者たちは大柄な体躯で威圧するようにじりじりと迫ってくる。気づけば民家の壁際まで追い詰められ、マーニャは身を震わせた。

 昔から暴力的な異性が苦手だった。野育ちの少年というものはたちの悪い腕白ばかりで、気の弱いマーニャは格好のいじめの標的だった。兄や年上の幼なじみが守ってくれたが、その庇護が却って同世代の少年たちと疎遠になる原因になってしまったらしい。

 思えば、男の子だとわかっていて気を許すことができた相手はフレデリケがはじめてだ。ある意味心臓に悪い人物だが、彼が自分を傷つけるようなふるまいをするはずがないと漠然と理解している。

(もしも、ここにリデルがいてくれたら……)

 きっと嫣然とした笑みを浮かべ、ネズミを転がす猫のようにあっさりと彼らを退けるに違いない。マーニャは胸の前で固く両手を握り締め、つっかえそうになる声で必死に訴えた。

「あ、あの、あたし急いでるんです。そ、そこをどいてください」

 しかし、若者たちはいっそうにやにやと笑うだけだった。

「そんなに怖がらないでよ」

「そうそう。ここらへんはたちの悪いやつがうろうろしてるから、俺たちが守ってあげるよ」

 いったいどの口が言うのかと罵倒してやりたい。不意に伸ばされた男の手が無遠慮に肩を掴み、声にならない悲鳴に喉の奥が痙攣する。

「じゃあ行こうか」

 マーニャはきつく目を瞑った。

(リデル、リデル……!)

 そのまま引きずられていきそうになった瞬間、第三者の声が鋭く斬りこんできた。

「――おい、そこで何をしている!」

 途端に肩を解放され、マーニャはハッと目を見開いた。うろたえている若者たちの向こうで深緑のサーコートが翻る。

 険しいまなざしで若者たちを睨んでいるのは、彼らと同じ年頃の青年だった。中背ながらも引き締まった体躯を包んでいるのはサーコートと同色の騎士服であり、白い手袋をはめた手は腰に帯びた長剣の柄頭を押さえている。

 騎士服の胸元に刺繍された紋章を目にしたマーニャは、息を呑んだ。

(吠え猛る双頭の白獅子……大公家の紋章!)

 深緑の騎士服は宮廷騎士団に所属する者だけが袖を通すことが許されたもの。つまり、目の前の青年は大公殿下に忠義の剣を捧げた本物の騎士なのだ。

「白昼堂々、騎士の目前でいやがるご婦人を力ずくで連れ去ろうとするとはいい度胸だな。おまけに、触れざるべき神の花嫁相手とは」

 青年は明るい碧の双眸を眇め、獰猛に笑った。彼が一歩踏み出しただけで、若者たちは天敵を前にしたカエルのように竦み上がった。

「こ、これは騎士の旦那、何か勘違いされちゃいませんか」

「俺たちは、ただこの……いや、こちらのシスターがお困りのようだったから声をかけただけですよ?」

 引きつった笑顔で弁解するふたりに、青年は更に口角を吊り上げてみせるだけだった。だが彼らにはじゅうぶんすぎたようで、「し、失礼しました!」と情けない声で叫ぶと転がるように逃げ去った。

 なんともあっけない退散に、マーニャはへなへなとその場に座りこんだ。

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