伯爵令嬢の秘密〈3〉

 修道院の一日は、日没とともに終わる。

 夜の訪れを告げる鐘の音が公都に響くころ、聖堂に集まった修道女たちは一日の平穏と恵みを神に感謝し、祈りを捧げる。揃って夕食を摂ったあとは、早々に各自の部屋へ引き上げるように決められていた。再び太陽が目覚めれば、慌ただしく彼女たちの朝がやってくるからだ。

 僧房の北の端に位置する見習い修道女の部屋からは、すでに灯が消えていた。明かり取りから射しこむ月影が青白く室内を照らしている。

 薄い毛布にくるまったマーニャは、隙間から忍びこんでくる夜気に身を震わせた。春が近いとはいえ、夜は冷える。手足の末端から凍りついていくようで、毛布の中でぎゅっと縮こまった。

 まだ故郷にいたころ、こんな冬の夜はきょうだいたちと身を寄せ合って眠ったものだ。ひとつの毛布を分かち合い、小さな弟妹たちを抱き締めて、あるいは兄や姉の腕の中で北風のすすり泣く声をじっと聞いていた。

 二度と触れることのないぬくもりが甦り、寒さがいっそうひどくなった気がした。恋しさはやがてきりきりと胸を締めつける痛みに変わる。

 脳裏に浮かぶのは、美しい故郷の春だった。

 雲雀が歌う明るい空。色とりどりの刺繍を凝らした敷物を広げたような荒れ野。果樹の枝先で丸々と膨らんだ蕾がいっせいに弾けると、村は花の帳に包みこまれる。

 チェリーアプリコットプラム……白い花びらが降り注ぐ道を、婚礼の衣裳を纏った姉が夫になる青年に手を引かれて歩いてくる。

 まるでふたりの門出を祝福するかのような花吹雪に、花嫁と花婿は幸せそうに微笑み合い、そして――

「……マーニャ?」

 衝立越しの呼びかけに、マーニャはハッと息を呑んだ。

「ど、どうしたの?」

「まだ起きているかと思って……」

 寝返りを打ったのか、かすかに寝台が軋む音が聞こえてくる。

 衝立の向こうにフレデリケがいることを思い出し、体からほっと力が抜けた。

「今夜は特に冷えるね。手足が氷漬けになりそうだ」

「まだ黒の季節ゾルテ・フィースだもの。青の季節アスル・フィースが来れば、すぐあたたかくなるわ」

 一年は十二の月から成り、それを更に四つの季節に分けている。

青葉が茂る春は青の季節、太陽が燃え盛る夏は赤の季節、乾いた風が吹く秋は白の季節フィーア・フィース、そして暗闇に凍える冬は黒の季節――というように。

 冬が終わり、青の第一月アスル・イールの朔日から七日間を渡って盛大に行われる迎春祭ヴェレンティアを経て、新たな一年がはじまるのだ。

 迎春祭が過ぎれば、マーニャは最低でも一年の見習い期間を終える。正式に修道女として髪を切る許しは、すでにマザー・アンゼリーネから貰っていた。

「これから迎春祭の準備で忙しくなるし、青の第一月まであっという間よ」

 マーニャは自分に言い聞かせるに応えた。

 そうだ。すぐに春はやってきて、今度こそ胸の奥に眠る想いと決別するのだ――

 一瞬、奇妙な沈黙が落ちる。フレデリケはため息をつくように呟いた。

「……そうだね。そうかもしれない」

 その声がひどく寂しげに聞こえ、マーニャは口をつぐんだ。

 ぎしり、と反対側の寝台が鳴る。孤独を掻き立てるような寒さに彼も眠れないのだろうか。

「ねぇマーニャ、あのシスターとどんな話をしてたんだい?」

「えっ」

「昼間、閲覧室で話しこんでただろう? シスター・リュシア、だっけ」

 いつの間に見られていたのだろう。シスター・リュシアとの会話を思い出し、かぁっと頬が熱くなった。

「何を……って」

 まるで好きな女の子にちょっかいをかける男の子のようだとか、あなたにとってかけがえのない方なのですねとか、思い返せば転げ回りたくなるような指摘ばかりだ。マーニャは毛布に潜りこんで身悶えた。

「ななな、何も! ぜんぜん大したことなんて話してないわ!」

「……まったくそういう風に聞こえないんだけど」

「リデルが気にすることじゃないわ! ええ、ちっとも、本当になんでもないから!」

 むしろお願いだから何も訊かないで! と涙目になりながら念じていると、ふとフレデリケの声が低くなった。

「僕には言えないようなことなのかい?」

 ぎくり、と反射的に体が固まった。

 衝立の向こうでひと際大きく寝台が軋んだ。かすかな衣擦れのあと、密かな足音が近づいてくる。

「シスター・リュシアには言えるのに、僕には何も話してくれないんだ?」

 ぎいっと音を立てて沈んだのは、マーニャの寝台だった。すぐそばに腰かけたフレデリケの気配が毛布越しに迫ってくる。

 心臓が口から飛び出してしまいそうで、とっさに両手で口元を覆った。

「…………僕じゃ、なんの力にもなれないのかい?」

 尋ねる声は怒っているようにも、拗ねているようにも思えた。

 マーニャは瞬くと、おそるおそる毛布から頭を覗かせた。視界をフレデリケの形をした影が遮り、月明かりを灯した蜂蜜色の双眸がじっと見下ろしてくる。

(なんてきれいなんだろう)

 状況も忘れて不思議な光に見とれた。

「……本当に、なんでもないの」

 その輝きに惹かれるまま、マーニャはおずおずと打ち明けた。

「シスター・リュシアは修道院に入ったころからいろいろ面倒を見てくれたひとで……あたしがあなたと、その、うまくいってないんじゃないかって心配してくれたのよ」

「……ふーん」

 いちだんと冷ややかなフレデリケの声音に、慌てて釈明する。

「も、もちろんそんなことないって言ったわよ? あなたとはぜんぜん性格も違うけど、一緒にいていやなわけじゃないし、それに――」

 ――かけがえのないひと。

 シスター・リュシアの言葉がすとんと胸の真ん中に収まった。

 フレデリケと過ごしたこのひと月を、本当は楽しいと感じていたのだ。大切な、特別な時間だと。

 知らず、マーニャは微笑んでいた。

「それに……あたしはリデルを、大事な友達だと思ってるから」

 フレデリケの目が大きく見開かれた。

 しばらくの間、ふたりは黙って見つめ合った。先に視線を逸らしたのは――フレデリケだった。

「僕は、きみの……『友達』なんだ?」

「リデルが友達になりたいって言ってくれて、あたし、嬉しかったの」

 マーニャは万感の思いをこめて言ったが、フレデリケの横顔は、なぜか切なそうだった。

「……きみが喜んでくれたら、僕も嬉しいよ」

 ごまかすように小さく笑い、少年は不意に身をかがめた。前髪越しに、ふわりとした熱が額へ落ちる。

 硬直するマーニャに、立ち上がったフレデリケは優しくささやいた。

「おやすみ、マーニャ」

 彼が衝立の奥に去っても、マーニャはしばらく動けなかった。額を押さえ、いったい何をされたのかと必死で考える。

 フレデリケの顔が近づいて、その形のいいくちびるが――

「……っ!?」

 マーニャは言葉にならない悲鳴を上げた。

 見習い修道女たちの眠れぬ夜は、まだまだ続く。

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