伯爵令嬢の秘密〈2〉
季節は移ろい、冬の最後の月である
すっかり雪もまばらな中庭を窓の向こうに見遣り、マーニャはため息をこぼさずにはいられなかった。
このひと月を振り返ると、凄まじい羞恥に身悶えそうになる。初日ですっかり味を占めたフレデリケは、暇さえあればマーニャをからかうことに精を出し、彼女の反応を見て大いに楽しんでいた。まるで遊び盛りの仔猫の手中で転がされる鞠になったような気分だ。
甘いささやきや刺激的すぎる触れ合いに、いったい何度心臓が壊されかけたことだろうか。フレデリケと出会ってから、自分の寿命はおそろしく削られているに違いない。
彼は、蜜のように甘美な毒だ。
美しい花には棘があるというが、フレデリケが微笑みの下に秘めているのは芳しい毒であった。魂まで蝕まれ、身を滅ぼされるとわかっていても、心惹かれずにはいられない魔性の猛毒――
「シスター・マーニャ?」
淡々として呼びかけに、マーニャはハッと我に返った。
傾きはじめた午後の陽が射しこむ書庫で、マーニャは先輩修道女のひとりから勉強を教わっている最中だった。
いくつもの書架が迷路を作り上げている書庫の奥には、長い机が並んだ閲覧室がある。ふたりはその一角で、広げた教本や筆記帳を挟んで向かい合っていた。
「何か気になることでも?」
「いっ、いいえ、すみません! シスター・リュシア」
慌てるマーニャに長い睫毛を瞬かせたのは、明るい亜麻色の断髪を紫紺のベールで覆った女性だった。
年のころは二十代後半、水鳥のようにほっそりとした首をわずかに傾げる様がなんとも優美だ。切れ長な双眸は、香り高い紅茶の色と揺るぎない静けさを湛えている。
シスター・リュシアは、年若いながらも二十年近くこの修道院で過ごしてきたという古株の修道女だ。院長からの信頼も篤い模範的な存在であり、マーニャも修道院に入ったばかりのときから何かと面倒を見てもらっていた。
「珍しいですね、あなたが講義中によそ見をするなんて」
「すみません、ちょっとぼうっとしちゃいました……」
「いいのですよ。――ちょうど切りのいいところでしたから、少し休憩しましょうか」
そう言うと、シスター・リュシアは教本を閉じた。
「悩みごとですか?」
「えっ?」
「ずいぶん塞いでおられるようですから。何か、悩んでいらっしゃるのではありませんか?」
修道女の静謐なまなざしは、心の奥底まで見通すように見つめてくる。
「悩んでる、っていうか……」
「……シスター・フレデリケとのことですか?」
マーニャは椅子から飛び上がった。
「彼女とうまくいっていないのですか?」
「そ、そんなことは」
ありません、と言い切ることができず、思わず項垂れる。
シスター・リュシアはわずかに目を細めた。
「シスター・フレデリケはたいへんお美しく聡明な方ですが、奔放で型破りなところがあるようですね。最近、シスター・アデリラは彼女のことばかり小言をこぼしていますもの」
「はあ……その、院長さまはあたしとは違った意味で自分に素直なひとだって言ってました」
「……なるほど」
表情に乏しい修道女の口元が苦笑気味に綻んだ。どうやらシスター・リュシアには、院長の言葉に含まれた意味がわかったらしい。
「確かにそのとおりですね。あの方はご自分を偽る必要などまったくないのでしょう」
なんて羨ましい、と彼女はひっそりと呟いた。
マーニャは瞬いた。
――フレデリケが最初から偽りのなかで生きているのだと、だれも知らないのだ。
自分の懺悔を聞いてくれるのはマーニャだけだと、彼は言っていた。嘘をつき続けることを神様の代わりに許してほしいと。
フレデリケの真実を知っているのは、マーニャだけだから。
「シスター・フレデリケは、あなたをとても慕っていらっしゃるようですね」
「え?」
「あなたと一緒にいらっしゃるときの彼女は、まるで好きな女の子にちょっかいをかける男の子のようですもの」
やんわりと微笑むシスター・リュシアの指摘に、マーニャは火が点いたように赤面した。
甘えられているのだろうか。
もしもそうだとしたら――いやではないと感じている自分に気づき、ますます顔が熱くなる。
「……友達になってほしいって言ってくれたんです」
蚊が鳴くような声でマーニャは打ち明けた。
「あたし、修道院に来て、もうそんなひとはできないって思ってました。院長さまやシスターたちはよくしてくれるけど……故郷にいたころみたいな、対等で、なんでもない悩みでも言い合える友達はできないだろうって」
だから、と続けた言葉は、知らず震えていた。
「すごく……すごく、嬉しかったんです」
差しのべられた手に救われたのは、きっとマーニャも同じだ。
何もかもあきらめていたはずの日々のなか、もう一度だけ神様が許してくれたわがまま。
マーニャだけの、友達。
「……あなたにとっても、シスター・フレデリケはかけがえのない方なのですね」
シスター・リュシアの優しい声に、マーニャはなぜか泣きたい気持ちで頷いた。
「――はい」
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