第二話
伯爵令嬢の秘密〈1〉
フレデリケ・エリアス・グリーンヒルは、グリーンヒル伯爵家に待望の男の子として生まれた。
伯爵夫妻はすでに三人の娘に恵まれていたが、長らく跡取りとなる息子を授かることが叶わなかった。当時、グリーンヒル伯爵ウィルバートは四十八歳、夫人のパミーラは四十二歳ともう若くはなく、第四子の妊娠はふたりにとって最後の希望だった。普段は温厚で沈着なウィルバートが男児誕生を知らされた瞬間、拳を突き上げて歓喜を叫んだことは今でも伯爵家の語り草になっている。
伯爵家の子どもたちは、かつて〈奇跡の青い薔薇〉と謳われたパミーラの美貌を見事に受け継いでいた。フレデリケと名づけられた末っ子も姉たちに負けず劣らず、天使が舞い降りたような愛らしい男の子にすくすくと育った。
両親である伯爵夫妻はもちろん、三人の姉も年の離れた唯一の弟を目に入れても痛くないほどかわいがった。
――しかし、彼女たちのフレデリケに対する情熱は、かなり間違った方向に開花してしまった。
「物心ついたころには、女の子の格好が当たり前になってたよ。姉上たちのおさがりなら山のようにあったし、まあ着せ替え人形にはうってつけだったんだろうね」
伯爵家の末娘として育ったいきさつを、フレデリケはあっけらかんと打ち明けた。
あまりの気負いのなさに、マーニャは豆鉄砲を食らった鳩の気持ちがよくわかった。
「……ええっと?」
「つまりね、最初はお遊びに過ぎなかった女装が冗談でなくなるくらい似合ってたもんだから、気づいたらとんでもない評判になってたんだよ。姉上たちはとことん凝り性だから徹底的に僕を磨き上げてさ、僕もかわいいとかきれいとか褒められるのはいやじゃなかったから調子に乗っちゃったんだよねぇ」
あっはっはっと他人事のように笑うフレデリケに、マーニャはめまいと脱力感を覚えた。
あれから意識を取り戻した彼女を待っていたのは、「おはよう」とすばらしい笑顔で迎えてくれたフレデリケ(添い寝つき)という名の悪夢の続き――もとい、容赦なき現実だった。
再び天国へ魂を飛ばしそうになったマーニャを、しかし彼はみすみす逃がしはしなかった。がっちり肩を押さえこまれ、「僕の話を聞いてくれるよね?」と背筋が凍る美声でささやかれたら、蒼白になって首肯するしかない。
なぜか寝台の上で膝を突き合わせた状態で、フレデリケは語りはじめた。
誉れ高き伯爵家の若君が性別を偽らねばならぬ理由――それは、「子どものころから女装を続けてたら、本当に女の子だって思われるようになっちゃった」というものだった。
「お、お父さまやお母さまは止めなかったんですか?」
「母上は姉上たちと一緒になって盛り上がってたよ。父上は当然いい顔しなかったけど、あのひとは母上の尻に敷かれっ放しだから」
今なお列国いちの美女の呼び声が高い伯爵夫人は、なかなか気の強い女性らしい。並み居る恋敵を蹴散らし、口説きに口説いてパミーラを射止めたウィルバートは、愛妻と彼女によく似た娘たちには頭が上がらないようだった。
こうして止める者のいない『四人目の伯爵令嬢』の噂は公国じゅうに広まり、フレデリケが年頃を迎えると数々の縁談が舞いこんだ。
若く美しい未婚の令嬢、更に大公殿下の覚えもめでたき名家の秘蔵っ子ともなれば、だれもが望む良縁である。途切れることのない求婚者の列に、しかし伯爵家は大いに慌てた。
何しろ、当のフレデリケはれっきとした男なのだ。どれほど少女の姿をしていようと、彼は伯爵家の跡取りであり、嫁ぐのではなく妻を娶らねばならない立場なのだから。
「訂正しようにも信じるひとなんてだれもいないし、本当のことが知られたら知られたで醜聞になるのは間違いないだろ? どうしようか手をこまねいているうちに、とうとう夜這いをかけられちゃって」
「あの……さる男爵家の若君がっていう?」
「そうそう。これは本格的にまずいってことになって、見かねた一番上の姉上がご夫君の大公殿下に相談したんだよ」
大公殿下をはじめとするごく一部の人びとは、フレデリケの本来の性別を知っている。たいへんな愛妻家で知られる大公殿下は、弟の将来を憂えるマリアーヌの頼みに、ほとぼりが冷めるまで大公家縁の女子修道院にフレデリケを匿うことを提案した。
「男子禁制の修道院なら下心のある連中は近づけないし、何より修道女になるっていえばあきらめも早くつくだろうしね」
「このことを、院長さまは知ってるんですか?」
「知ってたら僕を受け容れると思う?」
マーニャはふるふると首を横に振った。現在の院長であるマザー・アンゼリーネは大公殿下の伯母君に当たるそうだが、すでに家名を捨てた聖職者だ。厳格で敬虔な院長が世俗のために修道院の規律を破るとは思えない。
「だから
不意に変わったフレデリケの声色に、マーニャはぎくりと肩を強張らせた。
「まさかこんなにあっけなくばれちゃうなんて……本当に困ったなぁ」
フレデリケは小首を傾げ、気だるげに微笑んだ。悩ましいほど美しい笑みのなか、金色の双眸は少しも笑っていない。
「もしも事が明るみになったら、我が家だけじゃなくて大公殿下にもご迷惑がおかけすることになるんだ。せっかくの殿下のはからいを無駄にするなんて……できると思うかい?」
「で、でも、嘘はよくないと思います」
精いっぱいの勇気を振り絞って反論すると、フレデリケはくつりと喉を鳴らした。
「なるほどね――確かに、きみは修道女らしい修道女だ」
とん、と軽く肩を押されただけで、マーニャの視界はくるりと反転した。
「え……?」
目を白黒させていると、フレデリケが覆い被さるように顔を近づけてきた。ぎしり、と不吉に寝台が軋む。
「僕だって世間を欺くのは心苦しいよ、マーニャ。でも神様は、たったいっときの嘘すら見逃してくれないのかい?」
「フ、フレデリケさま!? どいてくださいっ」
「きみが『うん』って言ってくれたら」
フレデリケはひどく静かなまなざしで見下ろしてくる。
「きみが神様の代わりに許してくれたら、どいてあげる」
「そんな、あたしなんて、ただの見習い修道女でしかありません!」
「でも――僕の懺悔を聞いてくれるのは、きみだけだ」
マーニャは思わず瞬いた。
白磁色のかんばからは表情が抜け落ち、彼の胸の裡を推し量ることは難しかった。じっと外されぬ視線が、まるで縋っているように思えた。
出会ったばかりのマーニャには何もわからない。だが、唐突に思い出す――心細いのです、という言葉を。
「…………あたしは、何をすればいいんですか?」
気がつくと、そんな問いを口にしていた。
フレデリケは小さく目を瞠り、ふっと口元をゆるめた。
「マーニャは優しいね」
やわらかな、淡雪めいた微笑みに、胸の奥がきゅうっと痛んだ。
「僕がここを去るまで秘密を守ってほしい。ただ、それだけだよ」
「それ……だけ?」
「うん。きみが秘密を守ってくれたら、僕も必ず嘘を告白する」
マーニャは大きく息を吸いこみ――頷いた。
「約束です。神さまに誓って」
フレデリケは、嬉しそうに笑ってみせた。
「約束だよ」
しかし、彼はいっこうにマーニャの上から退こうとしない。それどころか、いたずらっぽく瞳を輝かせながら頬を撫でてきた。
「あの、フレデリケさま?」
「うん?」
「約束したから、そろそろどいてくれませんか?」
マーニャの懇願に、フレデリケはうっとりと目を細めた。
「今更気づいたんだけど」
「はい?」
「……修道女を組み敷くなんて、なかなか倒錯的でそそると思わない?」
「~~っ!?」
耳元に投下された爆弾発言に、マーニャは声にならない悲鳴を上げた。
しかし、それを聞き届ける者は、だれもいなかった。
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