見習い修道女の受難〈3〉
院長室をあとにすると、どっと疲労感が押し寄せてきた。
ため息を堪え、マーニャはフレデリケに向き直った。
「それじゃあ、お部屋のほうにご案内します。新しい尼僧服はそこでお渡ししますね」
「ねぇ、マーニャ」
「……なんでしょうか、シスター・フレデリケ」
いつの間にか『シスター』が取れている呼びかけに、ひどくいやな予感を覚えた。
「わたくしのことはリデルと呼んでくださいな。家族や親しい方には、そう呼ばれていましたの」
「そ、それはだめです。修道院の中では、お互いに『シスター』って呼び合うのが規則なんですから」
「ええ、ですからふたりっきりのときだけ。わたくしとあなただけの秘密ですわ」
くちびるに人差し指を当てていたずらっぽく笑うフレデリケに、マーニャはふらりと倒れたくなった。
(やっぱりあたしには無理です、院長さま!)
泣きながら院長室に逃げ戻りたい心地で、それでも踏ん張って首を横に振る。
「それにあなたは貴族でしょう? 平民の出のあたしには、とてもおそれ多くてできません!」
すると、フレデリケはなんとも悲しげに目を伏せた。
「わたくし、修道院というのはとても平等な場所だと聞いていました。神の御許では生まれの貴賎などなく、だれもがひとりの人でしかないと……それは間違いだったのでしょうか?」
「そ、それは……そうですけど」
「それに――わたくしは、あなたとお友達になりたいのです」
マーニャはばちぱちと目を瞬かせた。
「と、友達ですか?」
「ええ、そうですわ。俗世を捨てる覚悟でここに参りましたけれど……本当は、とても心細いのです」
憂いに濡れたフレデリケの言葉に、胸の奥にちくりと痛みが走った。
いつの間にか忘れていた――今もどこかに残る、幼い郷愁。
「同じ年頃の、同じく修道女を志す者として、お互いに支え合っていきたい。そう思っては……いけませんか?」
そっと両手を取られ、潤んだ瞳が雨のなかに打ち捨てられた仔犬のように見つめてくる。マーニャは赤面しながらなんとか言葉を探した。
「い、いけなくなんてないです! でも、規則は守ってもらわないと困るから……」
「……マーニャはとても真面目なのですね」
フレデリケは呟くような声で笑った。
「でも、わたくしとお友達にはなっていただけるのですね?」
「その……あたしも仲良くなれたらいいなって、思います」
マーニャとて人嫌いなわけではない。好意を示されれば嬉しいし、よりよい人間関係を築きたいと思っている。だが『友達』という響きがなんとも気恥ずかしくて、ぼそぼそと俯きがちに答えることしかできなかった。
「うふふ、マーニャは本当にかわいらしいのね」
いったい自分のどこを気に入ったのかが、フレデリケは楽しそうな笑顔で「かわいい」を連発した。おかげで部屋に着くころには、マーニャはすっかり茹で上がって肩で息をしていた。
「フ、フレデリケさま、あたしで遊んでませんか!?」
「まぁ、心外ですわ。わたくしは正直な感想を口にしているまででしてよ?」
(嘘だっ、ぜっっったい嘘だ!)
わざとらしく目を瞠(みは)るフレデリケを、マーニャは恨めしく睨んだ。
見習い修道女の部屋は、修道女たちが暮らす僧坊の北の端に位置している。独房を連想させる室内は、中央に目隠し用の衝立が置かれ、壁の両際に簡素な寝台と衣装櫃がひとつずつあるだけだった。
小さな明かり取りの下、聖家族を描いたタペストリーが慰めのようにひっそりと飾られている。
「ここが見習いの部屋です。一番暗くて寒い場所で暮らすことも、修道女になるための修行の一貫だってされてます」
マーニャは説明しながら、こっそりフレデリケの様子を窺った。広大な屋敷で美術品のような調度に囲まれて生活してきた令嬢に、はたしてこの光景は受け容れられるのか心配だった。
フレデリケは無言で部屋の中を見回していたが、なんでもないような口調で訊いてきた。
「寝台がふたつありますけれど、わたくしはどちらを使えばよろしくて?」
「えっ……と、あの、右のほうを」
「わかりましたわ。着替えや荷物は衣装櫃にしまえばよろしいのかしら」
「あ、はい、身の回りのものはなるべくそこに収まるぐらいがいいと思います」
「まさしく『清貧たれ』ということですわね」
余裕たっぷりに微笑むフレデリケに、マーニャはほっと胸を撫で下ろした。
さっそくフレデリケに尼僧服を渡し、衝立の反対側で着替えてもらう。襟の詰まったドレスをひとりで脱ぐのは大変そうに思えたが、有無をいわさぬ笑顔で手伝いを断られてしまった。
貴族の娘ならば使用人に身の回りのすべてを任せることが当然のはずだが、フレデリケはそうではなかったようだ。
「大きさは大丈夫ですか?」
「ええ、ぴったり。ドレスよりも動きやすいですわね」
衣擦れの音を聞きながら待っていると、頭髪を隠すベールを渡しそびれていたことに気づいた。マーニャは慌てて衝立の向こうを覗いた。
「ごめんなさい、あたしったらベールを……」
差し出したベールが、するりと床に落ちた。
フレデリケは豊かな巻き毛を下ろし、尼僧服に袖を通した格好のまま硬直していた。青色の胸元は大きくはだけ、その下のまぶしい素肌を隠すものは何もない。
――真っ平らだ。
マーニャのそれも決して誇れるような大きさではないが、フレデリケの白い胸部は堅く、女の持つやわらかさやまろやかさというとものをちっとも感じさせなかった。意外なほどしっかりとした鎖骨の線、ドレスの襟に覆われていた喉元に浮かぶあれは――喉仏ではないか!
マーニャはへなへなと腰を抜かした。
「え……あ……え、え?」
ぱくぱくと口を動かすことしかできずにいると、長く重いため息が聞こえた。
「まったく――僕としたことが、油断したよ」
フレデリケはそうぼやくと、気だるげに髪を掻き上げた。
その瞬間、目の前の人物を包む空気ががらりと変わった。
金色の瞳を眇める仕種はどこか鋭く、冷たい鋼に触れたようだ。無邪気で可憐な令嬢は消え、そこにいるのは、気位の高い猫を思わせる美しい――少年だった。
「フレ、デリケ、さま?」
(このひとは……いったいだれ?)
少年は膝を折ると、瞬きすら忘れてしまったマーニャの頬をゆっくりと撫でた。
薄紅色のくちびるを妖しく歪め、吐息を吹きこむように彼女の耳元でささやく。
「まったくいけない子だね……マーニャは」
――どんなお仕置きをしてあげようか?
痺れるほど甘く冷たい声が、マーニャの限界だった。
ぷっつりと糸が切れたように目の前が暗くなる。倒れかけた体を抱き止めてくれた腕の強さを感じながら、彼女は意識を失った。
これが平穏の終わりであり悩める受難のはじまりだと、マーニャはまだ知る由もなかった。
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