第一章 万事、代書うけたまわります⑫

 青年官吏は依頼したいというわりに、夏月の噂を完全に信じているわけではなさそうだ。不信感は曇った表情に表れていた。それでも頼みに来たからには、切羽詰まった事情があるのだろう。代書は断らないという信条を掲げる身としては断りにくい。


「必ず届くという保証はできませんが……わかりました。可不可、用意してちょうだい」


 夏月は可不可に筆やすずりなどの仕事道具一式をいれたちようだんを持ってこさせる。


「紙は普通の紙でいいですか? あてさきはどちらになりますでしょう……」


 年頃の娘としては落第扱いされがちな夏月だが、文字を書くとなると、人が変わったように手際よく動く。背後に控えた可不可は、心得たとばかりに帳簞笥から竹簡や紙を出してづくえに並べる。呼ばれて代書をすることも多いから、息が合った動きだ。


てん省、えんうんにある太学の国子祭酒──とう博士宛に。秘書庫にてんげんこくの祭祀にまつわる書物があれば、急いでこちらに送ってほしいと──そう書いてほしい」


 洪緑水と名乗った官吏は、迷いなく行き先を述べる。幽鬼を相手にしているのと違い、書きつけをとる必要はなさそうだ。急ぎだと言うから、宛先は初めから清書した。


「天原国の祭祀……念のため確認させてください。これは命令書ではなく、おうかがいなのでしょうか? 命令なのか、こちらがへりくだってお願いするのか、親しい人相手なのかで文章が変わってきます。どちらがよりお客様のご希望にかないますでしょう?」


「面識がある相手で、これは王命だ。先に出した手紙が届いていないとしたら、もう日がない。手紙が届き次第、ほかのなにより急ぐように書いてほしい」


 官吏の言葉に切実な気配を感じて、夏月の顔をしかめる。


「恐れながら、王命でしたら、もう一度、急使を立てたほうが早いのではありませんか? それと、差出人の名前をお願いします」


 問いかけながらも夏月は筆を止めずに、さらさらと文面を書きあげる。


「秘書省写本府長官、洪緑水だ。だから、その急使が手紙を届けられなかったから放つ矢を増やそうと思って頼んでいるのです」


「秘書省? 写本府というのは、秘書省の管轄なんですか? 秘書庫があるという……」


 洪緑水の言葉に反応して、夏月は早口にたずねていた。


「よく知っていますね、そのとおりです」


 質問に気をよくしたらしい。洪長官は表情をやわらげて答えた。


「秘書庫に納める書物を書いているのが写本府なのです。もともと写本府は陛下のお声がかりで作られた部署で、今回も訳あって王命をいただいてますが……祭祀とこの手紙のことは内密にお願いします」


 低く抑えられた言葉には、『内密』というだけの緊張感が漂っていたが、夏月の心はすでに秘書庫という言葉に舞いあがっていた。


(たくさん書物があるという秘書庫……石碑はあるのでしょうか、所蔵してあるのは紙の書物──琥珀国の書物だけ? それとも……)


 書をたしなむだけあって、夏月は書物に目がない。特に書体がまったく違う古文経──いわゆる古文書が好きで、たくさんしゆうしゆうしていた。読める読めないにかかわらず集めているから、仕事というより趣味のはんちゆうと言える。

 琥珀国の近隣にはいくつもの国があるが、国の文書の秘匿性を保つためだろう。このあたりでは、王朝が変わるたびに書体や文法を変えて記述するため、公式文書の書体を石碑にして残す風習がある。太学の博士や上級官吏といったかぎられた者だけが書体を理解し、解読できるように、石碑から拓本を作るのが常だった。


(秘書庫というからには、書体の拓本がたくさん納められているかもしれない……)


 ──見たい。どこの国の拓本があるのか……ものすごく見たい。


 特に、歴史が長い天原国は、何人もの有名な書家がいた。伝説の書家のしゆせきによる写本や書体の拓本は、国が滅亡したあとも人気が高い。そのせいか、天原国はどこかに碑林──たくさんの石碑を隠しているという伝説がまことしやかにあった。


「秘書庫に入ってみたい……」


 ここが後宮で、紫賢妃と上級官吏を相手に話しているということも忘れて、欲望が口をいてでた。その瞬間、洪緑水のまなざしが獲物を見つけた捕食動物のように鋭くなったことに夏月は気づいていなかった。


「それなら、写本府に女官として勤めてみますか? 秘書庫に入る機会がありますよ」


「そうなんですか? さきほど、『天原国の祭祀にまつわる書物』とおっしゃいましたが、秘書庫にはほかの国の書物もあるのですか?」


 期待が高じるあまり、周りが見えなくなっていたのだろう。夏月は早口に質問していた。背後では、可不可が必死で夏月の袖を引いている。


「お嬢……お嬢。後宮で天原国の話はまずいですって……」


「あ、そうか……そうでした」


 はっと我に返って手で口を覆えば、紫賢妃も苦笑いを浮かべている。

 必要以上に手紙の内容に触れるのは代書屋としても問題があるが、それ以上に、琥珀国が滅ぼした国の名を、城内で軽々しくつぶやいてはいけない。


「夏月、そこまでになさい。急ぎの手紙だと言うのですから、まずは手紙を洪長官に渡して、仕事を終えるのが筋でしょう。もし、秘書省について知りたいなら、後日、また後宮に呼んであげます」


「はい……申し訳ありません」


 姉からたしなめられ、夏月は急いで手紙の内容をまとめた。墨が乾くのを待って内容を確認してもらうと、


「では、代金はのちほど……女官の件もあらためて連絡します」


 立ちあがった洪長官は、一緒にやってきたかんがんをつれて慌ただしく去っていった。

 どうやら、夏月とのんに雑談をする時間がないほど、切迫した用件だったらしい。


「秘書省と六儀府は、ときおり後宮の奥に出入りする部署なのです、それで夏月の噂を聞きつけたのでしょう。後宮の奥に古いれいびようがあり、近々、重要な祭祀があると陛下からうかがっています。その準備で奔走しているのでしょう」


 後宮の事情に詳しくない夏月に、紫賢妃が補足をいれてくれる。

 後宮入りした姉は国王の覚えがめでたく、その結果が藍家の権勢につながっている。父親の藍思影でさえ、その言動を無視できない、藍家の陰の実力者だった。話しながら、夏月の心がまだ『秘書庫』にかれていることに気づいたのだろう。姉は夏月が持ってきたきんづつみを開いて、納品した写本を手に話題を変えた。


「私が頼んだ写本で無理をしなかった? 代書屋のほうはどうかしら……ちゃんとお客様からお代をいただいているの?」


「え、ええ……それはまぁ……その……」


 急に話が変わっただけでなく、気まずい話題をふられて夏月は言いよどんだ。


「お嬢はあいかわらず、商売は駄目です。客から『お金がない』と言われれば代金は品物でいただくし、目を離せば、すぐに幽鬼の代書を引き受けているし……」


 あるじの言葉にかぶせ気味に、可不可が勝手に答える。本来なら従者の振る舞いとしてはありえないが、夏月の話を聞きたいからと、内々の会見のときには紫賢妃が許していた。


「ふふふ……それでも、独り立ちするために商売を頑張っているのね」


 やわらかな言葉遣いのなかに才気を感じさせる姉は、あいかわらず美しく、ふわりとみやびな香りが漂う。その香りを聞いて、不意に先日のことがよみがえった。


柄のじゆくんの……」


(あの幽鬼がまとっていたのと同じ香りだ──)


 鮮やかなしゆうが夏月ののうによぎり、思わず呟いてしまったのが聞こえたのだろう。


「琵琶柄の襦裙とは……ずいそくのことでしょうか」


 甲高い声に問いかけられ、夏月ははっと目を向ける。声を発したのは、まだ幼さが残る宦官の少年だ。目上の人から話しかけられなければ勝手に話してはいけないという後宮の規則は、この年頃の少年には難しいのだろう。とっさに反応したことを周りに窘められ、「申し訳ありません」とこうとうして謝っている。

 しかし、夏月は違う意味で驚いていた。この宦官の反応からすると、琵琶柄の襦裙といえば、誰もが特定の人物を想起するほど知られたきさきがいるということだろう。くだんの幽鬼は昨年の大量の死にまじってひっそりと殺されるような、名もない下級妃だと思っていたから、意外だった。


「もしかしてお姉様……いえ、紫賢妃もその方を……琵琶柄の襦裙の妃をご存じなのですか? たとえば……そう、香をわけてあげたことがある、とか」


 自分で口にしていながら、どきりとした。


(後宮でも昨年の夏はたくさんの死者が出ていたはず……そのときの死者だろうか?)


 一見すると、このところの運京は平穏に見える。大路には人があふれ、商売人の羽振りもよさそうだ。しかし、それは表向きだけで、町人たちは昨年のことを忘れていない。


 ──『干ばつはを滅ぼした呪いではないのか……』


 たいびように参るとき、知人の家にはいを見つけたとき、そんな噂がよみがえり、よどみのように町のあちこちに蔓延はびこる。大屋根の軒につるされたとうろうが落とす影を見ながら、夏月も昨夏の記憶を思いだしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る