第一章 万事、代書うけたまわります⑪


〈四〉


 ──翌日、夏月は姉に会うために、後宮はこうしよう殿でんを訪れていた。


「藍夏月が紫賢妃にごあいさつ申しあげます。ご所望の書物の写しをお持ちしました」


 書物を台の上に広げて見せながら、夏月はれい──ひざをついた姿勢で手と手を重ねて頭を下げ、ごうしやおおそでさんまとった姉に礼を尽くした。

 紫賢妃は侍女ふたりとかんがんひとりをつれて現れ、板敷きの大広間の上で、すっと長いすそさばき、近づいてくる。いくつもこうがいかんざしを挿し、大きく結いあげた髪は美しいが、少し重たそうだ。裾に向かって色が変わる上品な染めのくんに、高腰に結んだ帯に紫色のはいぎよくを挿している。その優雅な佇まいこそが位階が高いきさきであることを告げていた。


「夏月、具合はどうなの? ちゃんと食べているの?」


 姉の美しい指先が夏月の両頰をやさしく挟み、心配そうに顔をのぞきこむ。


「は、はい……突然、お約束を破ってしまい、申し訳ありません」


 まさか厄払いに行って死んでいたとは言えずに、夏月は頭を下げる。


「約束なんていいのよ。ただ、夏月は夜更かしするわりにこれまで倒れたことなんてなかったから驚いてしまって……」


 みずみずしい頰に黒目がちなひとみ。張りのある声を聞くうちに、姉と話しているという実感がわいてくる。夏月は自然と口元がゆるむのがわかった。


(あのまま、死んでしまわなくてよかった……)


 生きているよろこびを感じると同時に、黄泉がえるための引き替え条件──泰山府君の手伝いのことを思いだしてしまった。


 ──『現世の城で調べたいことがあったのだ。おまえの運命に働きかけてやろう。城へ行き、私の手伝いをするというなら、地上へよみがえらせてやる』


(ここも城のなかだけど……まさかこの訪問が手伝いではないでしょうね?)


 泰山府君のことを考えて、夏月が姉から意識をそらせたときだ。

 誰かが宦官を先触れによこしたらしい。紫賢妃の侍女と何事か応答をはじめた。


「まぁ、夏月と会っているところに来るなんて……いったいどなたでしょう」


 姉は表情を曇らせたが、断れない相手なのだろうか。訪問の許可を与えている。


(久しぶりに会えたのに、わたしはもう帰らないといけないのでしょうか……)


 事情がわからない夏月が肩を落としたときだ。官吏らしきほうを纏った青年が、宦官とともに弘頌殿の広間に入ってきた。


「紫賢妃にこうりよくすいがご挨拶申しあげます。こちらの無理を聞いていただき、ありがとうございました。そちらが噂の代書屋でしょうか?」


 入ってきたのは見た目のしい青年官吏だ。結いあげた髪に簪を挿した姿はすらりとしており、女性に微笑みかければ十人が十人とも恋に落ちそうなふうぼうをしている。


(噂とはなんのことだろう? 幽鬼の代書をしていることが問題になったか、それとも)


「まさか、黄泉がえりの娘……?」


 自分の悪評が多すぎて見当がつかない。夏月が相手を観察しているように、官吏も夏月を値踏みするように眺めている。多分にけんせいしあう空気をひきとったのは、この場でもっとも身分が高い紫賢妃だった。


「噂というのは『夏月の手紙がよく届く』というものかしら? まさか外廷にまで伝わるとは……写本府の長官ともあろう方が、ただ代書を頼みに来たわけではありますまい。なにか手紙でもあるのですか?」


 その言葉に驚いたのは夏月だ。


 ──『夏月に手紙を書いてもらうと、手紙が不思議と無事に届くのよ』


 夏月が代書屋をする許可を父親からもらうのに、姉はそんな説得をしていたが、ただの方便だと思っていた。まさかそんな益体もない噂を信じて代書を頼みに来る人がいるとは思わなくて、夏月の頭は真っ白になる。


(そういえば……あの幽鬼も『先生にお願いすれば間違いがないという噂を思いだして』などと言っていた……)


 噂の出所が姉なのだとしたら、やはりあの幽鬼は後宮にいたのではないだろうか。気になることが一度に頭に渦巻いて、噂を否定するところまで気が回らないでいると、


「ご明察のとおりです、紫賢妃。あるさいを行うよう、王命が出ている件、紫賢妃もご存じのことと思います。その祭祀の資料を送るようにと急使を出したのに連絡が途絶えているのです。おそらく、昨年の干ばつから一転して川のはんらんがつづいているせいだと思いますが……無理を言っていることは承知ですが、代書をお願いしたい」

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