第一章 万事、代書うけたまわります⑩
〈三〉
──また会えるのでしょうか……。
泰山府君の背に手を伸ばそうとして、指先はそのまま空を切った。夢のあわいから現実へと閉めだされ、その急激な変化に、一瞬、意識がついてこない。
「ここ……どこ……?」
自分がどこにいるのか理解できなくて、夏月はかすれた声を漏らした。体がすっかりと冷えきっていて、ぶるりと身震いする。
どこだかわからないが、寒い。下手をしたら、夜明け前の『灰塵庵』よりも寒かった。
しかも、異様に体が重い。ぎくしゃくと身を起こそうとして、おかしいはずだと納得した。夏月が寝ていたのは、普通の布団ではなく、石の上だったのだ。
よくよく見れば、見覚えのある藍家の
「なんで……こんなところで寝ていたのでしょう……」
声を出そうとすると、その声もひどくかすれている。のどが渇いて仕方がない。
「可不可はいないの? 水。水なんてどこかにあったかしらね?」
ずりずりと石棺から下りて動きだそうとして、ようやく自分の着ている衣服もおかしいことに気づいた。季節に合わせて色合いを変える
「どういう……こと?」
頭のなかを疑問で埋め尽くしていると、がたり、と廟堂の扉が開いた。外からの風もぴりっと寒いが、どこかすがすがしい。
その風とともに入ってきたのは、従者の可不可だった。
「ああ、なんだ。いたの、可不可……水を持っていない? のどが渇いて渇いて死にそうなの……」
首元を押さえながら、必死に訴えたつもりなのに、可不可には通じなかったらしい。
「お、お嬢!? まさか……まさか
すばやい動きで後ずさりすると、廟堂のあちこちに張られているなかから札を一枚
(いったいなにがどうなっているのだろう……)
夏月は従者の不条理な行動を𠮟りつけたい衝動を抑えて、額から札を外した。
「可不可……少し冷静になって答えてちょうだい。そうしないと、おまえの給金を減らしますからね」
「お嬢から給金が出ないなら本家に出戻りですね……ってお嬢、なんだか殭屍にしては生きているときと変わりありませんね」
「誰が殭屍よ……泰廟の
辛抱強く夏月がくりかえすと、可不可もようやく頭が冷えてきたらしい。いつもの調子をとりもどして、かいつまんで話をしてくれた。泰廟で意識を失った夏月を『灰塵庵』に連れ帰ったこと、本家に連絡し、医師を呼んで死亡が確認されたこと。
「あ、もちろん、紫賢妃にも後宮にうかがえないという連絡をしておきました」
突然のことだったから、父親は夏月の死をすぐに認められなかったらしい。もともと、死体はしばらく安置してから埋葬する習慣がある。様子を見ようと『灰塵庵』に三日ほど寝かせていたのを今朝早くに廟堂に移したと言われ、危ないところだったと思う。
石棺に納められて土葬されていたら簡単には
「──つまり、頭を強くぶつけたわたしは息をしておらず、医師の診断では死んでいたと……それで現在は廟堂に安置されていたと、そういうことね?」
「脈がありませんでしたからね……ほら、こんなふうに」
さっきまで殭屍だと
「あれ? 脈が……ある? まさか……確かに脈がなかったはずなのに!」
「ほほほほほ……きっと衝撃のあまり仮死状態になって脈がひどく遅くなっていたのでしょう。可不可、これでわかったでしょう、わたしは死んでいないのよ?」
笑みを浮かべて自分の従者を落ち着かせる一方で、内心では動揺を隠せなかった。
(三日! あの竹簡の山を片付けるのに三日もかかっていたなんて!)
どうりで体が重いはずだ。泰山府君の鬼のような催促を思いだして、頭を抱えてしまう。それとも、三日もの時間が過ぎているのは、代書ではなく、
「お嬢? 気分が悪いんですか? 医師を呼んで来ましょうか……いますぐ」
「お待ちなさい、可不可。のどが渇いてお腹が空いているだけです。ここは
夏月はきっぱりと宣言して、祖霊廟をあとにしたのだった。
† † †
しかしそのあと、今度は自分の布団の上でここちよい眠りを
当然のことながら、藍思影は娘が死んだと思っていた。
なにせ、医師から死亡の診断をもらい、三日も死んでいたのだ。いくら健康だった娘の突然の死が信じられないとはいえ、遺体をずっと放置するわけにはいかない。
後宮入りしている長女──紫賢妃や、地方勤めに出ている長男に夏月の
藍思影は目が飛びでんばかりに驚き、娘を実家に呼びつけた。──そんなわけで、貴族街は洞門路にある藍府の一室で、夏月は父親の小言を聞かされていた。
「おまえが結婚もせずに代書屋の真似事をするのはまだいい。
素徳というのは最近、父親が
夏月が実家に寄りつかない一番の原因だった。
「しかし、だ。朱家から婚約破棄の申し入れが届いたかと思えば、娘は泰廟で倒れて死んでおり、そうかと思えば黄泉がえって街をふらつき、黄泉がえりの娘などと呼ばれていると言う……夏月、そんな娘の父親の身にもなってみろ!」
まるで商品を売るときの口上のようだ。壮年の父親にしては一息に、滑らかな口調で
「お父様、申し訳ございません。でも、ずっとなにも食べてなかったので、とてもお腹が空いて……それこそ、また死んでしまいそうだったのです」
しおらしく頭を下げたが、正直に言えば、夏月としては自分が死んでいた、という感覚があまりない。なにせ、
すぐに本家に顔を出せる体調ではなくて、父親のことをすっかり忘れていたのだった。
ここで神妙な顔をして謝ってくる娘に
「いったいなぜ私は、死んで黄泉がえったあと、親に顔さえ見せない娘を養っているんだろうな……」
「ごもっともで」
父親に同意したのは夏月の背後に控えていた可不可だった。廟堂での驚きようから察するに、彼もまた夏月が死んだと思って、ずいぶんと胸を痛めていたのだろう。
(仕方がないことですけど……また
夏月の窮地を救ってくれたのは、姉、紫賢妃からの使いだった。
「
部屋の入口で使いとやりとりし、可不可が藍思影におうかがいを立てる。その意味がわからなくて夏月が首をかしげていると、父親はまだ説教したりない顔で言う。
「紫賢妃には、おまえは具合が悪くて後宮に上がれないとだけ連絡してある。今日は城に上がるには遅いから、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます