第一章 万事、代書うけたまわります⑨
きっぱりと冥府の王に告げると、夏月の答えを予想していたのだろうか。泰山府君は驚いた様子もなく、新たな提案をした。
「天命はまだ尽きていない……か。では、こうしよう、代書屋。この泰山府君がおまえを生き返らせてやる。そのかわり、おまえは私の仕事の手伝いをするのだ」
(あれ? まだ竹簡が残っていたでしょうか……)
夏月が視線をさまよわせた意図を察したようだ。法廷に否定の言葉が響く。
「違う。そもそも地上に出かけていたのは、現世の城で調べたいことがあったのだ。おまえの運命に働きかけてやろう。城へ行き、私の手伝いをするというなら、地上へよみがえらせてやる」
「地上に出かけていた……あっ、均扇楼の……」
夏月はそこでようやく、この神の顔に見覚えのある理由に気づいた。
(わたしが
「なぜ泰山府君ともあろうお方が地上の酒楼に出入りして……ではなく、わたしはもう十分働いていませんか?」
溜まっていた竹簡がどれほどあったと思っているのだろう。憤然と口答えする夏月に泰山府君はにやりと笑う。
「いますぐ冥籍が欲しいなら、遠慮はいらぬぞ? すぐに地獄でも城隍神の下働きでも送ってやる」
「泰山府君のお手伝い、この藍夏月、確かにうけたまわりました」
今度は即答だった。いますぐ冥籍に入る──つまり、死者にさせられてはたまったものではない。神仙の考えなど夏月にはわからない。
(ともかく死なないですむのなら、それでいいでしょう……)
夏月は死んだ魚のような目で頭を下げた。表情とは逆に、内心では死にもの狂いだった。冥府にいるからには、もう死んでいるのかもしれないが。死を身近に感じるからこそ、生がひときわ
「天命か……」
泰山府君は夏月の
ぴちょんぴちょんと
「紅騎」
泰山府君はそばに控えていた部下を呼びよせ、最後に残っていた竹簡を手渡した。
「この娘の天命はまだ尽きていない。たまたま、この泰山府君が地上との行き来をしたさいに、その通り道にこの娘がおり、巻きこまれて
ぱたりと音を立てて、禄命簿が閉じられた。どうやら死後の戸籍を書き入れる必要はないということらしい。夏月はほっと胸を
「紅騎、この娘は西の門から帰してやれ」
それで話は終わりだと言わんばかりに、泰山府君は椅子から立ちあがった。
あとから知ったことなのだが、泰山府君の御殿にはときおり生者が訪れることがあるようで、西の門は生者が使う門なのだという。
神が
「代書の対価は私の頭を踏んだ罰と相殺だ。それでよいな」
「承知いたしました。お客様の要望とあれば、代書はいつでもお引き受けいたしますので、どうぞまたご
対価という言葉に可不可の顔を思いだしてしまったせいだろう。柄にもなく、営業用の言葉が、するりと口を
「そうだな……また法廷の死者が増えたら代書屋の手を借りることも一考しよう」
それで立ち去ろうとして、ふと思い返したように、
「藍夏月、このたびは確かにおまえの天命は尽きなかった。しかし、それはおまえの選んだ道がたまたま先に繫がっていただけだ」
これは警告だと言わんばかりの、戒めを含んだ物言いでつづけられる。
「おまえの顔には死相が出ている」
「死相……ですか?」
冥府の王から言われて、これほど不吉な言葉があるだろうか。思わず夏月は自分の首が繫がっているのかどうか、手をやってしまった。
「そうだ。天命は確かにあり、天命の蠟燭が尽きないかぎり、おまえは死なない。しかし、運命にはいくつかの分岐点があり、その選択いかんが寿命を左右する。間違った道を行けば、ただちにおまえの天命は尽きる──そういう凶相が出ている」
「運命の分岐点……」
生きている人間なら誰でも思い当たる『もしも』の別の道。もしも、幽鬼に襲われたときに運が悪かったら、あるいは、夏月が梯子から落ちたときに泰山府君が通りかからなかったら──。いくつもの『もしも』、いくつもの『分かれ道』を経て、夏月はいま冥府にいる。そのどれかで違う選択をしていれば、すでに死んでいたかもしれないという警告でもあった。
泰山府君は、動揺する夏月に近づいて、なにを思ったのだろう。おのれの髪に挿した
「代書屋の働きぶりに免じて、ひとつ埋め合わせをしてやろう。おまえが危機に遭い、どうしても進退きわまったときには、泰山府君の名を呼ぶがいい」
そう言うと、その簪を夏月の髪に挿して、
「おお、我が泰山府君はさすが……なんと寛大な処置だ。ほら代書屋、礼を言わぬか」
言われて、夏月はお礼を言っていないことに気づいた。扉の向こうへ消える後ろ姿に、あわてて手と手を重ねて頭を下げる。
神に口答えをして生き返らせてもらったのだ。
(神様が持っていた簪なんて……
簪は古代には魔除けのひとつだったと言われている。もし、本当に夏月に死相が出ているのなら、それを
西の門と言われた巨大な門を出たところで振り返れば、『泰山府』と
その孤高の輝きは、どこかしら、星冠を
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