第一章 万事、代書うけたまわります⑧


    † † †


 式神と幽鬼の官吏とが冥府の法廷を行ったり来たりしているうちに、白州にいた死者たちは、いつのまにかいなくなっていた。

 あれほど騒がしかったはずなのに、いまは苦悶の声も、嘆きかなしむ声も聞こえない。

 いま目の前に広がる光景には、冥府のもうひとつの側面──死というものが持つ、厳かさやせいひつさが漂っていた。夏月が泰山府君の指示の下、ひたすら片付けていた竹簡の山も、いまは影も形もない。最後に残った竹簡は、当然のことながら夏月のものだ。それに気づいているのかどうか、泰山府君は手元に置いた禄命簿をじっと眺めている。


「藍夏月、──藍思影の娘。運京の外れで代書屋『灰塵庵』を営む……さて」


 さきほどまでの鬼教官ぶりから、冥界の裁判官の顔に戻った泰山府君は、いま初めて夏月の禄命簿に目を通したかのように読みあげた。


「死にたくないと言うわりに、やはり現世では世捨て人のように生きているだけではないか。いっそのこと死して冥府で働くほうが代書屋として役に立つのではないか?」


「生きていても、ちゃんと代書で人の役に立っておりますので、どうぞおかまいなく」


 泰山府君の言に乗せられまいと、夏月はぴしゃりと言い返した。

 どうもこの神の言葉は危険だ。本当のことかどうかもわからないのに、あいづちを打っただけで言質をとられてしまうようなあやうさを感じる。

(気にしない気にしない……現世で女の代書屋なんてとさげすまれたときと同じ)


 ──よくあることだと、流してしまえばいい。


 そう思って我慢できたのは、つかの間のことだった。


「おまえていどの書家など、市井に掃いて捨てるほどいるのではないか。それともあれか。未婚で死ぬことが心残りだというなら、泰山府君の妻になるか? きさきのひとりとしてめとってやってもいいぞ」


 冥府の王は夏月の書いた禄命簿をぱらぱらとめくりながら、挑発するように言う。


「結構です。わたしは結婚に興味ありませんので」


 かぶせ気味に拒絶すると、悠然と座した貴人はまた、くつくつとのどを鳴らして笑う。

 からかわれているのだとわかっていたが、つい感情的な反応を返してしまった。


「泰山府君は誰でもできる仕事だからとわたしから書をとりあげるとおっしゃる。それなら、名もなき官吏はどうでしょう? 誰でもできる仕事をしていると、すべて冥府に落としますか? そんなことをしたら行政は止まってしまうでしょう。誰でもできる仕事を多くの者がやることが大事なのです。そうすれば、突然、誰かが休んでも誰かが代わりにこなせますから」


「なるほど……神に仕事の心得を説くとは……おまえの師はずいぶんとそんな弟子を育てたものだな。幽鬼の代書をするのも誰かに教えられたのか?」


 くくく、と冥府の王は笑っていた。気分を害しているというより、単に面白がっているようだった。


「幽鬼の代書をしてやりたいのは……誰とも関係ありません。わたしの考えです」


 ──深夜、鬼灯ほおずきを掲げていれば、幽鬼が訪ねてくる。


 それは古い風習なのだと、夏月は知っていた。


「死したあと幽鬼となってまで伝えたい想いを、彼らは託しに来るのです……わたしはそれを届けてやりたい」


 ──どうかわたしの話を聞いて。声にならない叫びを聞いて。


 その声を無視できないのは、まるで自分を見ているかのようだからだ。


 ──『どうしておまえは普通の娘と違う振る舞いばかり……』


 父親の言葉を思いだすたびに胸が痛む。変わり者の娘だと嘆かれては、夏月の言葉などなかったことにされてしまう。


 ──書をやめたくない。結婚なんてしたくない。


 何度伝えても、言葉はまるで届かなくて、そのうち夏月は伝えようとすることをあきらめた。代わりにひとりで生きる道を模索するようになった。


「わたしはただ……自分が自分のまま生きたいのです」


 夏月が泰山府君に答えていると、どこから漂ってくるのだろうか。ぬるい風が吹いて、天命のろうそくの炎が大きく揺らいだ。


(どうも、この冥府の王は苦手だ……)


 心の奥に封じこめて見ないようにしていたことを思いださせる。こんな話をするつもりはなかったのに、心のうちを話してしまった。夏月の心が揺らぐと、蠟燭の炎も揺らぐように見える。

 人の寿命を定めたる火──それが天命の蠟燭だ。漆黒の壁に浮かびあがるは二重三重、に連なる火。風が吹けば揺らぎ、水が滴れば消えいりそうになる。

 美しくもはかない人の一生。いくつかの蠟燭の炎が消え、いくつかは消えたあとで、また炎が勢いをとりもどしている。無数に揺らめく炎を見ているうちに、夏月はそのうちのどれが自分の蠟燭なのだろうと考えた。炎の揺らめきを眺めているうちに、ふと、自分と天命の蠟燭とがつながっている気がした。


(わたしの蠟燭の火は、まだ強く燃えつづけているような──)


「そもそも……泰山府君。ひとりで仕事を抱えて処理できなくなるのは本末転倒です。泰山府君の手が止まっているせいで、ほかの人の仕事まで滞っているではありませんか」


 冥界の空気にまれまいと、夏月はあえて語気を強めて非難した。

 するとまた、蠟燭の火のいきおいが強くなった気がして、夏月はこぶしを握りしめた。


 ──まだ死にたくない。


 そう強く思えば思うほど、炎は強くなり、夏月は繫がりを確信した。


「それに、わたしの天命はまだ尽きていないと思いますので」

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