第一章 万事、代書うけたまわります⑦

「この泰山府君の手伝いをする、だと……?」


 脅すような声だが、気を引いたのは確からしい。泰山府君の視線が夏月に向いているいまが、売りこみの絶好の機会だった。


「はい。字の読み書きができない者の代理で手紙やへんがくを書くのが代書屋でございます。『泰山府君の頭を踏んだ罰として冥府に落ちた』とおっしゃいましたが、代書の対価でその罪を帳消しにしていただけないでしょうか……わたしはまだ死にたくありません」


 こうとう──地面に手と額をつけ、伏してお願いする。


「必要のないことを勝手に話しだすな!」


 官吏を通さずに、泰山府君に直接、話しかけたのがまずかったのだろうか。あかい服の衛兵にやりの石突きでこづかれた。ほかの幽鬼たちはもっと勝手に申し開きをしているというのに、なぜ夏月だけがこづかれるのだろう。釈然としない。しかも、竹簡をうずたかく積んでいた官吏たちまで、憤然となって抗議してきた。


「人間の死者ごときが、泰山府君の代わりをしようなどと、無礼にもほどがあるわ」


「そうだそうだ。死者が罪状を書に連ね、判決を下すのは泰山府君の役目。ただびとに代われるものではない」


 はやし立てるように、めいかいの官吏たちが夏月をそしるのを、右から左へと流していると、


「黙れ!」


 泰山府君の怒声とともに、無数の札が放たれた。白い札──霊符は、まるで音の波に乗って届いたかのように法廷の白州につきささる。霊符にはそのひとつひとつに、しゆがこめられていたのだろうか。あたりは突然、水を打ったように静かになった。あれほど騒いでいた幽鬼たちさえ、その場で凍りついている。


「代書屋。この泰山府君の代理で判決文を書くと言ったな」


「そのとおりです。当方が泰山府君の手となって、代わりに文字を書きます。泰山府君のお役目の代わりではありません。あくまで文字を代わりに書くだけです」


「私の手の代わり……」


 判決を代わりに下すのではない。代書というのは、書けない人の代わりに文字を書くものだ。生きている人間だけでなく、幽鬼に対しても同じだ。


(幽鬼の代書なんて、わたしぐらいしか引き受けない。あの幽鬼の手紙を届けてやらなければ……ここで死ぬわけにはいかない)


 死んだ衝撃で失いかけていた仕事のきようが、ふつふつとよみがえる。


「はい。『代書屋は相手の仕事に関わる話を、書くときにゆがめてはならない』とされています。まずはわたしの仕事ぶりを見て判断していただくというのはいかがでしょう。それで満足していただけたなら、対価をいただくということで」


 取引を持ちかけられそうな気配を察し、夏月は言葉を重ねて頭を下げた。跪座で泰山府君の返事を待っていると、ここが冥府だということを忘れてしまいそうだ。


 ──本当に自分は死んだのだろうか。ただ夢を見ているだけじゃないのか。


 午睡の夢のような、ひとときのあわいのなかにいて、ほんの一瞬を永遠のように感じているだけなのではないか。

 泰山府君の背後に並ぶ、ろうそくの火を、その炎の揺らぎをひとみに映しながら、そんなことを考えていた時間もまた、瞬きするほどのわずかな時間だったはずだ。なのに、風が吹き、火がついたり、消えて煙を上げたりしている時間が、やけに長く感じる。しばらくして、泰山府君が筆を筆かけに下げ、立ちあがったときには、自分が一年ほど同じ場所にいたような気さえした。


こう。その娘をこれへ」


 呼ばれた声に、夏月に石突きをつきつけていた赤い衛兵が槍を引く。階段を上っていけと言うことだろう、槍で追いはらうようなぐさをされる。死者から離れて、対句やせいな模様を彫刻した石の階段を上っていくと、くらい空に揺らめく極光が目に映った。


(対句に書いてある文字は……泰山府君をたたえる言葉だろうか)


 朱色のかわらをいただく巨大な屋根を持つ、壮麗な殿宇。その向こうに見えるだんがい絶壁にも様々な浮き彫りしてあるのが見える。夏月としては遠すぎて文字が読めないのが惜しいくらいだが、神々しいまでに美しく、ありえないほどに異様な光景は、泰山府君のをいやましていた。

 高いところから法廷を眺めると、まるで野外劇場の舞台に上がったかのようだ。壇上でゆうれいして近づくと、冥府の王の顔がはっきりと見えた。


(この美丈夫が冥府の王……泰山府君?)


 響きのいい声音から想像したとおりの、すっと伸びたりよう、美しい額に切れ長の目。薄く笑って口角を上げた口元は役者のように整っており、若々しい美青年だった。

 どこかのやんごとなき身分の青年だと言われたら、信じてしまいそうだ。

 冥府をつかさどる怖ろしい神なのに、その表情はどこかしら人間くさい。夏月の言動、行動をどうしてくれようかという顔は、面白がっているようにも見える。神仙は年をとらずに長く生きると言うが、実際にまのあたりにすると、ただただ驚くしかなかった。

 神の顔というのは、人間の思惑を超えた賜物なのだろう。畏怖にひれ伏したい気持ちと同時に、いつまでも見ていたくなる不思議な魅力があった。


(なぜだろう。この神の顔をどこかで見たことがあるような……)


 夏月が首をかしげていると、早くしろとばかりに羽毛扇で招かれた。


「いいだろう……これが判決内容だ。こちらが見本。まずは試しに書いてみよ」


 泰山府君の命令にこたえて、きんをした下級官吏が椅子を持ってくる。普通の幽鬼なのかと思ったら、顔には呪言の書かれた布を垂らしていて、夏月はぎょっと目をいた。言葉を発しなかったから、幽鬼ではなく、式神なのかもしれない。

 さっき泰山府君が霊符を使っていたとき、夏月はまるで道士の術のようだなどと、神様相手に不謹慎にも思ってしまったが、術式を操って当然だ。泰山府君というのは、死者の裁きを行う冥府のあるじというだけではない。

 陰と陽を司る術式──おんみようどうの神でもあるのだった。


(代書をしますなどと言ってしまったけど……なぜ、式神に書かせないのでしょうか?)


 夏月がちらりと視線を向けたのを見ていたらしい。疑問にすぐ答える声があった。


「式神は私の補助はできるが、代わりはできない。ほかの官吏もだ。法廷を開くことはできるが、ろくめい簿への書き入れは私しかできないのだ」


 言われて、前に置かれた書物が、人の運命を記したという禄命簿なのだと気づいた。


「こんなことは初めてだからどうなるか、わからないが……まずは書いてみろ」


 言われて夏月は筆を手にとった。しかし、この禄命簿に書いたことはその人の運命を決めてしまうと思うと、さすがに緊張で手が震える。


「念のため、おうかがいしますが……禄命簿に文字を書き入れるなんて呪われたりしませんか?」


「それは知らぬ。代理で書かせたことなんてないからな。まずはこの男だ。天命は六十一才。死因は病による衰弱死。罪状は軽微。めいせき──死後の戸籍はせいせんさんきようだい城隍神付きとする」


 夏月の畏れなどとるに足らないとばかりに、作業は強引に進められる。夏月はとりいそぎ手近な竹簡をとり、見本の禄命簿のとおりに書きつけた。これでいいかと確認するように泰山府君の顔色をうかがうと、


「それでいいから、すばやく清書しろ。竹簡が溜まっているからな」


 是とも否ともとれない返事が来ただけだった。


(自分が溜めたはずなのに、なぜ、そんなに偉そうなのか……)


 今度は禄命簿に筆先を下ろすと、滑らかな紙の感触がした。引っかかりのない、上等な紙だ。軽やかに筆が進む。書き終えたとたん、ひゅっ、と流れ星のような光が闇の空間を駆け抜けた。どうやらそれは、裁定が下った幽鬼が法廷から消えたときの光のようだった。


「よし……これはよいな。うまくいきそうだ……次。人殺しの上、刑死。天命は三十五才の男。地上で裁かれた罪のほかにも殺害、強盗、陵辱の罪あり、地獄落ちとする」


 さきほどの禄命簿の主とは正反対の内容に、夏月は思わず顔をしかめた。しかし、


「代書屋、これを裁いたのはこの泰山府君であり、おまえは代書するだけではなかったのか」


 という声がかかり、心から感情を締めだした。


「そのとおりでございます」


 夏月が言われた言葉を書きとめたと同時に、もんの叫びが響きわたった。さきほどの流れ星のような光とは違い、地獄の獄卒が首に鎖をつけて引き立てていったからだ。


「次は、天命は十才。死因は遊覧船から川に落ちてのでき。親を泣かせた罪として、地獄行き」


 響きのいい声が、先をうながす。書き終わった禄命簿は式神が持ちさり、墨が乾くまで棚に並べられている。夏月の前の卓子が空くと、泰山府君が竹簡の山のなかから無造作にひとつを選び、その覚え書きの死者の禄命簿を広げた。


「十才の……溺死は……地獄行きでございますか……」


 感情をこめるなと言われたばかりなのに、筆を持つ手が震えてしまった。


「親より先に死んだ子どもが行く地獄がある……そこからまた六道へ転生し、新たな生を歩む……罪状があり、地獄に落ちるのは、理由あってのこと。ここは冥界で、冥界にはめいかいおきてがある。安易におまえが肩入れしたところで、死者のためにはならないぞ」


 ほら早く書けとばかりに、泰山府君が手にしていた羽毛扇でこづかれた。羽なので痛くはないが、心はまだきしんだ音を立てていた。


「意外と手が早いお客だこと……」


 ぼそりとこづかれたあたりの頭をでて独り言のように言うと、もう一度、羽毛扇でばさっと頭をこづかれる。今度は本当に物理的に痛い。


「代書屋の仕事ぶりをこの泰山府君が鼓舞してやっているのだから、感謝するがいい。次は──……」


 泰山府君の鬼教官のごとき指導は、疲労しきった夏月が動けなくなるまでつづいたのだった。

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