第一章 万事、代書うけたまわります⑦
「この泰山府君の手伝いをする、だと……?」
脅すような声だが、気を引いたのは確からしい。泰山府君の視線が夏月に向いているいまが、売りこみの絶好の機会だった。
「はい。字の読み書きができない者の代理で手紙や
「必要のないことを勝手に話しだすな!」
官吏を通さずに、泰山府君に直接、話しかけたのがまずかったのだろうか。
「人間の死者ごときが、泰山府君の代わりをしようなどと、無礼にもほどがあるわ」
「そうだそうだ。死者が罪状を書に連ね、判決を下すのは泰山府君の役目。ただびとに代われるものではない」
「黙れ!」
泰山府君の怒声とともに、無数の札が放たれた。白い札──霊符は、まるで音の波に乗って届いたかのように法廷の白州につきささる。霊符にはそのひとつひとつに、
「代書屋。この泰山府君の代理で判決文を書くと言ったな」
「そのとおりです。当方が泰山府君の手となって、代わりに文字を書きます。泰山府君のお役目の代わりではありません。あくまで文字を代わりに書くだけです」
「私の手の代わり……」
判決を代わりに下すのではない。代書というのは、書けない人の代わりに文字を書くものだ。生きている人間だけでなく、幽鬼に対しても同じだ。
(幽鬼の代書なんて、わたしぐらいしか引き受けない。あの幽鬼の手紙を届けてやらなければ……ここで死ぬわけにはいかない)
死んだ衝撃で失いかけていた仕事の
「はい。『代書屋は相手の仕事に関わる話を、書くときに
取引を持ちかけられそうな気配を察し、夏月は言葉を重ねて頭を下げた。跪座で泰山府君の返事を待っていると、ここが冥府だということを忘れてしまいそうだ。
──本当に自分は死んだのだろうか。ただ夢を見ているだけじゃないのか。
午睡の夢のような、ひとときのあわいのなかにいて、ほんの一瞬を永遠のように感じているだけなのではないか。
泰山府君の背後に並ぶ、
「
呼ばれた声に、夏月に石突きをつきつけていた赤い衛兵が槍を引く。階段を上っていけと言うことだろう、槍で追いはらうような
(対句に書いてある文字は……泰山府君を
朱色の
高いところから法廷を眺めると、まるで野外劇場の舞台に上がったかのようだ。壇上で
(この美丈夫が冥府の王……泰山府君?)
響きのいい声音から想像したとおりの、すっと伸びた
どこかのやんごとなき身分の青年だと言われたら、信じてしまいそうだ。
冥府を
神の顔というのは、人間の思惑を超えた賜物なのだろう。畏怖にひれ伏したい気持ちと同時に、いつまでも見ていたくなる不思議な魅力があった。
(なぜだろう。この神の顔をどこかで見たことがあるような……)
夏月が首をかしげていると、早くしろとばかりに羽毛扇で招かれた。
「いいだろう……これが判決内容だ。こちらが見本。まずは試しに書いてみよ」
泰山府君の命令に
さっき泰山府君が霊符を使っていたとき、夏月はまるで道士の術のようだなどと、神様相手に不謹慎にも思ってしまったが、術式を操って当然だ。泰山府君というのは、死者の裁きを行う冥府の
陰と陽を司る術式──
(代書をしますなどと言ってしまったけど……なぜ、式神に書かせないのでしょうか?)
夏月がちらりと視線を向けたのを見ていたらしい。疑問にすぐ答える声があった。
「式神は私の補助はできるが、代わりはできない。ほかの官吏もだ。法廷を開くことはできるが、
言われて、前に置かれた書物が、人の運命を記したという禄命簿なのだと気づいた。
「こんなことは初めてだからどうなるか、わからないが……まずは書いてみろ」
言われて夏月は筆を手にとった。しかし、この禄命簿に書いたことはその人の運命を決めてしまうと思うと、さすがに緊張で手が震える。
「念のため、おうかがいしますが……禄命簿に文字を書き入れるなんて呪われたりしませんか?」
「それは知らぬ。代理で書かせたことなんてないからな。まずはこの男だ。天命は六十一才。死因は病による衰弱死。罪状は軽微。
夏月の畏れなどとるに足らないとばかりに、作業は強引に進められる。夏月はとりいそぎ手近な竹簡をとり、見本の禄命簿のとおりに書きつけた。これでいいかと確認するように泰山府君の顔色をうかがうと、
「それでいいから、すばやく清書しろ。竹簡が溜まっているからな」
是とも否ともとれない返事が来ただけだった。
(自分が溜めたはずなのに、なぜ、そんなに偉そうなのか……)
今度は禄命簿に筆先を下ろすと、滑らかな紙の感触がした。引っかかりのない、上等な紙だ。軽やかに筆が進む。書き終えたとたん、ひゅっ、と流れ星のような光が闇の空間を駆け抜けた。どうやらそれは、裁定が下った幽鬼が法廷から消えたときの光のようだった。
「よし……これはよいな。うまくいきそうだ……次。人殺しの上、刑死。天命は三十五才の男。地上で裁かれた罪のほかにも殺害、強盗、陵辱の罪あり、地獄落ちとする」
さきほどの禄命簿の主とは正反対の内容に、夏月は思わず顔をしかめた。しかし、
「代書屋、これを裁いたのはこの泰山府君であり、おまえは代書するだけではなかったのか」
という声がかかり、心から感情を締めだした。
「そのとおりでございます」
夏月が言われた言葉を書きとめたと同時に、
「次は、天命は十才。死因は遊覧船から川に落ちての
響きのいい声が、先をうながす。書き終わった禄命簿は式神が持ちさり、墨が乾くまで棚に並べられている。夏月の前の卓子が空くと、泰山府君が竹簡の山のなかから無造作にひとつを選び、その覚え書きの死者の禄命簿を広げた。
「十才の……溺死は……地獄行きでございますか……」
感情をこめるなと言われたばかりなのに、筆を持つ手が震えてしまった。
「親より先に死んだ子どもが行く地獄がある……そこからまた六道へ転生し、新たな生を歩む……罪状があり、地獄に落ちるのは、理由あってのこと。ここは冥界で、冥界には
ほら早く書けとばかりに、泰山府君が手にしていた羽毛扇でこづかれた。羽なので痛くはないが、心はまだ
「意外と手が早いお客だこと……」
ぼそりとこづかれたあたりの頭を
「代書屋の仕事ぶりをこの泰山府君が鼓舞してやっているのだから、感謝するがいい。次は──……」
泰山府君の鬼教官のごとき指導は、疲労しきった夏月が動けなくなるまでつづいたのだった。
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