第一章 万事、代書うけたまわります⑤


    † † †


 ──『夏月お嬢様はまた婚約破棄されたんですって……』


 ──『そりゃあそうでしょう。女のくせに文字を書いてばかりいる変わり者ですもの』


 ──『おまけに幽鬼と話すなんて、不吉だわ……近寄りたくもない』


 気がつけば、夏月は使用人たちからさんざんなことを言われていた。

 どうしてなのだろう。夏月がやりたいことをやりたいようにしているだけで、白い目で見られてしまうのは。


(ただ亡くなった人の、最後の想いを伝えたいだけなのに……)


 幽鬼の手紙を届けてやりたいというのは、そんなにいけないことだろうか。それとも、女の代書屋が気に食わないのだろうか。鬼灯を掲げて深夜遅くまで店を開いているだけのことが、なぜそんなに非難されるのだろう。夏月にはわからなかった。

 誰もが目を背ける幽鬼は、まるで夏月自身のようだ。言いたいことがあっても話を聞いてくれる人はいない。


 ──『先生、私……だまされていたんです』


 ──『ここは暗くて冷たくて……』


 幽鬼の客の声が脳裡によみがえり、夏月はぶるりと身を震わせた。


「──わたしが……手紙を届けてあげないと……」


 のどから絞りでた声で、はっと我に返った。腕をさすりながら顔を上げると、低く高く、まるで鬼のき声のようなうめき声が耳につく。地の底からいあがってくる声は不気味でいて、どこかもの哀しい。あれは死者の声だと夏月の勘は告げていた。


「ここは……どこ……?」


 あたりにはただ漆黒の闇が広がっていた。空には星も月もなく、地面もくらい。さっきまで陽光の下にいて、泰廟の赤や金に彩られた建物を見ていたはずなのに、どこにも見当たらない。自分の視界が色を失ったのかと思うほど、唐突に色彩のない世界にいた。


(いったい、なにが起きたのだろう? どうやって?)


 疑問は次から次へと湧いてきたが、夏月は立ちあがって歩きだすことにした。

 わきおこる震えが、ひとつところにとどまらないほうがいいと本能に訴えかけている。

 こういう勘には逆らわないほうがいい。岩だらけの坂を上り、次第に目が闇に慣れてくると、視界の隅にあった塊がときおりうごめいていることに気づいた。


「うう……うぅう……苦しい……」


 こくしゆうしゆうというのだろうか。嘆きとももんともつかない声は、その塊から漏れている。


「そこの方……どうかなさいましたか? ひっ………」


 声をかけて、夏月はすぐに後悔した。そこで蠢いていたのは確かに人間だった。髪があり、目があり、耳があり──少なくとも人間の形に見える。しかし、その体は大きなくいにつらぬかれ、目や口から血が滴り落ちている。まるで刑に処された罪人のようだ。


「なんで俺がこんな目に……」


「痛い痛い痛い痛い痛い痛い──つらい助けて……助けてくれないなら……恨んでやる」


 よくよく闇に慣れた目でぐるりと周囲を見わたせば、あちこちに蠢くなにかがある。しかし、そのどれもが杭で穿うがたれたり、あるいは鎖につながれて大きな岩を動かしたりして、苦しげな声を漏らしている。さきほどから響いてくる不気味な声は、苦痛の労役についている彼らの叫びであり、嘆きであり、苦しみなのだった。


「ど、どういうこと……? ここはもしかして刑場なの?」


 琥珀国にも定められた律令はあり、規律に従わない者は罪に問われる。棒打ちをはじめとして、腕や性器を落とされたり、八つ裂きにはりつけの刑もあったはずだ。普段、夏月が目にすることはないが、運京にもそういった刑場があるのは知っていた。

 それは城市をとり囲む、高い城壁の外にある。罪人は刑に処されたあと、飢えた動物に食われてもやむなしというのが、この国のあり方だった。


(まさか……女が代書屋をしているのはいけないと新たな律令ができた……とか?)


 申し開きもなく刑に処するのだろうか、という疑問は頭の片隅に残っていたものの、響きわたる苦悶の声を聞くと、圧倒的な現実を前に疑問のほうが霧散してしまう。


「嫌だ。まだ死にたくない……」


 震えながら思わずつぶやいたときだ。虚空の空に、ちらりちらりと光が蠢いた。


「あれは……極光?」


 闇のなかに蠢く光の幕の話を、夏月は書物で読んで知っていた。

 輝く青白い幕は、まるで天仙の衣のようだ。誘うように揺らめいては形を変え、瞬きをしているうちに見えなくなる。その美しい光を追いかけているうちに、唐突に巨大な楼閣を持つ門が現れた。びようを打たれた、まるで城門のごとき立派な朱門だ。


「そこの娘、く入るがいい」


 唐突に、命令じみた声をかけられた。いつのまに後ろにいたのだろう。振り返れば、ひとりの騎馬兵が馬上から声をかけていた。赤い羽織をまとい、手にやりを持っているところを見ると、この刑場の衛兵らしい。夏月がなんて返事をしようか考えるまもなく、騎馬兵の言葉に呼応するように、巨大な門が音を立てて開いた。

 なかに足を踏み入れると、朱色のかわらをいただく、壮麗な殿でんが見えた。立派な大屋根に巨大な柱が連なる建物には無限にどうろうがつづいている。どこかのお屋敷に紛れこんだのかと思ったが、これほどの壮麗な屋敷が運京にあったなら、夏月だって噂で聞いているはずだ。


(もしかして、黒曜禁城の奥? でも、なにかが違うような……)


 屋敷を囲むだんがい絶壁には一面に碑文や題辞が連なり、奇妙にひと気がない。生き物の気配もない。風変わりな城壁の模様や円窓は美しいが、違和感の理由をはっきりと言葉にできずにとまどっていると、どーんどーん、と規律を正すような太鼓の音が響いた。

 どういう奇妙な世界に入りこんだのだろう。さっきまで暗闇のなかにいたはずなのに、門の内側は明るかった。昼の明るさではなく、極光だ。暗い天空に薄布の幕がかかるように、青白い光がまばゆく頭上に揺らめいている。夏月がぼうぜんとその揺らめきを眺めていると、またかすように太鼓の音が響き、奥につづく門が開いた。


「死者たちは伏してめいを待て。泰山府君のおなりである……頭が高いぞ!」


 ふたつめの門をくぐった先は、法廷のようだ。屋根がない中庭はまず白砂を敷きつめた広場になっており、そこでたくさんの人がわめきたてていた。


「噓です! 私は罪なんて犯していません。泰山府君、どうかお慈悲を……」


「俺は悪くない。俺が地獄に行くなら、俺の一族を殺した相手こそ地獄行きだろう!?」


 これから裁かれるとおぼしき人々は、口々に自分の無実や恨めしさを訴えている。

 その訴えはすべて、正面にいる大府に向けられていた。七段ほどの階段を上った先、まるで複雑な器械のような、奇妙な模様の描かれた石碑の前に白い衣の神が座している。高いところから見下ろされているからだろうか。ぬかずいた格好でも、すさまじい威圧を感じてしまう。


(これが……冥府の王──泰山府君……?)


 法廷の周囲には百薬だんのような規則正しい棚が並び、ほうまとった官吏が忙しく動いている。法廷を埋めるほどの死者の聞きとりをしているからだろう。卓子の上にはいまにも崩れそうなほど大量の竹簡が積んである。

 そのさらに向こうには、幾重もの、ゆらゆらと揺らめく光があった。それが人の天命をつかさどろうそくだと気づいたのは、法廷にいたひとりに沙汰が下されたあとだ。官吏が蠟燭の炎をふぅっと吹き消すと、その場にいた男が、断末魔の悲鳴をあげる。その闇をつんざく怖ろしい声を聞くと、法廷で頭を伏している者はみな震えあがった。


「ここが……冥府ですって? では、わたしはもんかんに頭をぶつけて……」


 夏月はようやく、自分がどこにいるのかを理解した。

 死者の魂が集まるのが五聖山のうちの東岳──泰山である。泰山の御殿には泰山府君が住まい、冥府を治める。死者といえども戸籍を持ち、現世の罪に応じて地獄に落ちるか、どこかの町のじようこうしんなり土地公なりの下について苦役を行うのが定め。

 泰山府君は、人間の宿業や寿命を記した帳面──ろくめい簿を持ち、やってきた死者の罪や徳を量って、地獄に送る裁きを下す。

 冥府の王。冥府を治める神である。

 響きわたるのは幽鬼の泣き声か、苦役にあえぐ呻き声か。


 ──ここは泰山府君が支配する死者の国なのだった。

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