第一章 万事、代書うけたまわります③
「上等な絹織物。雅な香り……その香は市井で簡単に手に入るものじゃないでしょう?
夏月の姉、藍
「あの、お客様……背負っている子は下ろしてあげたらいかがでしょう?」
控えめに、しかしはっきりと夏月が口にした瞬間、それがきっかけとなったのだろう。女の気配が一変した。殺気がみなぎり、空気がぴん、と張りつめる。
生者と見まがうくらい存在感があっても、幽鬼のなかには、自分の執着しかない。
執着があるために代書屋を通じてまで手紙を出したいと思う一方で、その執着に他人が触れたとたん、奪われると思うのだろう。ときには襲ってくることがあった。
「ねぇ、先生。手紙はもう一通、お願いしたいのです……宣紙で……宛先は……
女の声は鈴を鳴らすように軽やかでいて、いまにも歪な音に変わりそうな緊張感を
「だって……ここは暗くて冷たくて……早く外に出してと……──ああ、どうして? 震えが止まらないっ……」
女は
「あなたは……誰かに殺されたの? その人に恨みを晴らしたいの?」
その問いがまた女の執着に触れたのだろう。形相が豹変した客は、まるで獣が
「早く運京に来てって言ったじゃない……今度は私の番だったでしょう? それなのにどうして……どうして、私のしあわせを邪魔するの? 許せない許せない! ああ、あなた……どこ? 私と一緒になってくれると言ったのは噓だったの? どうして……」
とっさに開いておいた文机の抽斗から黄紙に朱書きした霊符を手にとった。『厭悪鬼符』の文字と記号が書かれた霊符は、幽鬼に襲われたときのためにしのばせてあったものだ。
襲ってくる女を間一髪でかわす。霊符が幽鬼の額に触れると、
「ううううぁぁぁぁ……っ」
女は
戻ってきても入れないように、急いで扉にも霊符を貼りつけると、緊張の糸がゆるんだ。夏月はどっと板敷きの上に倒れこんだのだった。
† † †
「お嬢、起きてますか?
従者の声がして、夏月ははっと目を覚ました。どうやら店で寝落ちしたらしいと気づいて、大きく伸びをする。寝ながら客を待てるようにしてあったのがさいわいしたのだろう。布団の上に倒れていた。
どうにか体を起こして、客と自分を隔てていた対面机を見れば、銭受け皿の上には、紙のお金が数枚あった。いつのまにか昨夜の客が律儀に置いていったようだ。紙で作られたお金といっても、
「お嬢、店で寝落ちしたんでしょう? 入りますよ」
声をかけただけで、返事を待たずに若い娘がいる部屋に入ってくるのはいかがなものだろうか。奥の扉が思いきりよく開き、長い黒髪を後ろで束ねた可不可が入ってくる。
彼は、机の上に置かれた書きかけの手紙と、銭受け皿にひらひらと揺れる冥銭を見ただけで、すべてを察したらしい。思いっきり顔をしかめた。
「また幽鬼、ですか……」
小言を言う気配に、夏月は身構えた。可不可の考えはお金ありきだ。夏月が書に没頭しようが幽鬼の代書を引き受けようが、それ自体はあまり問題視していないが、なにせ幽鬼の客はお金にならない。『また幽鬼ですか』というのはつまり、また金にならない仕事をしたのかという意味だった。
夏月を嫌がる藍家の使用人のなかで、一緒に『灰塵庵』に来てくれたのは可不可だけで、それはいまも感謝している。しかし、彼の物言いは、
「また、というのが、また幽鬼の客が来たのかという意味なら、確かにそうです。もともと、『灰塵庵』は幽鬼の代書をしていたのですし、生きている客はついでにお引き受けしているだけなのですから……そもそも、可不可。代書というのは頼まれたら断ってはいけないものなのですよ。特に手紙の代書は」
代書屋の心得を何度、説明したらわかるのだろう。代書はただの商売というより、字の読み書きができる者の責務なのだと夏月としては思っている。
「はいはい。お嬢が結婚なんてしたくないと言うから、帳簿の収支を気にかけているだけで……いいんですよ。お嬢が
「うっ、それは……」
痛いところをつかれて夏月は言葉に詰まった。店の収支を持ちだされると、どうも夏月には分が悪い。ごまかすように視線をそらした先には、まだ昨夜の名残で、走り書きした竹簡と書きかけの手紙があった。竹簡を手にとって読みあげる。
「宛先のひとつは楽鳴省の護鼓村か……さて、どうしましょうか」
そういえば、幽鬼の名前を聞きそこなったことに、いまさら気づいた。手紙に書いてほしい内容も
「早く運京に来て……か」
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