第一章 万事、代書うけたまわります③

「上等な絹織物。雅な香り……その香は市井で簡単に手に入るものじゃないでしょう? けんからの贈り物ではありませんか?」


 夏月の姉、藍しゆうきよくは後宮入りして、いまは紫賢妃と呼ばれる身分だ。もともと衣服の趣味にうるさい人で、自分で調合した香りを纏っている。気に入った相手に贈ることはあっても、それは後宮のなかだけのはずだ。身分によって使える香が決まっているから、誰にでも与えられる香りではない。そこまで考えて、やはり、と夏月の頭のなかで警鐘が鳴った。


「あの、お客様……は下ろしてあげたらいかがでしょう?」


 控えめに、しかしはっきりと夏月が口にした瞬間、それがきっかけとなったのだろう。女の気配が一変した。殺気がみなぎり、空気がぴん、と張りつめる。

 生者と見まがうくらい存在感があっても、幽鬼のなかには、自分の執着しかない。

 執着があるために代書屋を通じてまで手紙を出したいと思う一方で、その執着に他人が触れたとたん、奪われると思うのだろう。ときには襲ってくることがあった。


「ねぇ、先生。手紙はもう一通、お願いしたいのです……宣紙で……宛先は……こくようきんじようの……あの方に……」


 女の声は鈴を鳴らすように軽やかでいて、いまにも歪な音に変わりそうな緊張感をはらんでいた。座ったままの夏月が後ずさりすると、女の声の調子がまた一段と乱れる。


「だって……ここは暗くて冷たくて……早く外に出してと……──ああ、どうして? 震えが止まらないっ……」


 女はかんに障ったように悲鳴じみた声をあげた。陰に隠れていても隠しきれなかった美しいようぼうは、口が裂け、皮膚は腐りただれる。はっきりと危険な兆候だとわかっていたのに、それでも夏月は問いかけずにはいられなかった。


「あなたは……誰かに殺されたの? その人に恨みを晴らしたいの?」


 その問いがまた女の執着に触れたのだろう。形相が豹変した客は、まるで獣がいたように対面机を飛びこえてきた。


「早く運京に来てって言ったじゃない……今度は私の番だったでしょう? それなのにどうして……どうして、私のしあわせを邪魔するの? 許せない許せない! ああ、あなた……どこ? 私と一緒になってくれると言ったのは噓だったの? どうして……」


 とっさに開いておいた文机の抽斗から黄紙に朱書きした霊符を手にとった。『厭悪鬼符』の文字と記号が書かれた霊符は、幽鬼に襲われたときのためにしのばせてあったものだ。たいびようで焚きあげしてあり、幽鬼を退ける力があった。

 襲ってくる女を間一髪でかわす。霊符が幽鬼の額に触れると、


「ううううぁぁぁぁ……っ」


 女はもんの声をあげ、やはり獣のような素早さで狭い店を出ていった。

 戻ってきても入れないように、急いで扉にも霊符を貼りつけると、緊張の糸がゆるんだ。夏月はどっと板敷きの上に倒れこんだのだった。


    † † †


「お嬢、起きてますか? あさの支度をはじめていいですかね?」


 従者の声がして、夏月ははっと目を覚ました。どうやら店で寝落ちしたらしいと気づいて、大きく伸びをする。寝ながら客を待てるようにしてあったのがさいわいしたのだろう。布団の上に倒れていた。

 どうにか体を起こして、客と自分を隔てていた対面机を見れば、銭受け皿の上には、紙のお金が数枚あった。いつのまにか昨夜の客が律儀に置いていったようだ。紙で作られたお金といっても、かん紙幣ではない。めいせんと言って、冥界で死者が使えるように焚きあげをして贈るものだった。


「お嬢、店で寝落ちしたんでしょう? 入りますよ」


 声をかけただけで、返事を待たずに若い娘がいる部屋に入ってくるのはいかがなものだろうか。奥の扉が思いきりよく開き、長い黒髪を後ろで束ねた可不可が入ってくる。

 彼は、机の上に置かれた書きかけの手紙と、銭受け皿にひらひらと揺れる冥銭を見ただけで、すべてを察したらしい。思いっきり顔をしかめた。


、ですか……」


 小言を言う気配に、夏月は身構えた。可不可の考えはお金ありきだ。夏月が書に没頭しようが幽鬼の代書を引き受けようが、それ自体はあまり問題視していないが、なにせ幽鬼の客はお金にならない。『また幽鬼ですか』というのはつまり、また金にならない仕事をしたのかという意味だった。

 夏月を嫌がる藍家の使用人のなかで、一緒に『灰塵庵』に来てくれたのは可不可だけで、それはいまも感謝している。しかし、彼の物言いは、あるじに対してあまりにも遠慮がなさすぎではないだろうか。そこが気に入っている所以ゆえんでもあり、もう慣れているのだが、店で寝落ちして体が痛い夏月は、すんなり聞き流す気分ではなかった。


「また、というのが、また幽鬼の客が来たのかという意味なら、確かにそうです。もともと、『灰塵庵』は幽鬼の代書をしていたのですし、生きている客はついでにお引き受けしているだけなのですから……そもそも、可不可。代書というのは頼まれたら断ってはいけないものなのですよ。特に手紙の代書は」


 代書屋の心得を何度、説明したらわかるのだろう。代書はただの商売というより、字の読み書きができる者の責務なのだと夏月としては思っている。


「はいはい。お嬢が結婚なんてしたくないと言うから、帳簿の収支を気にかけているだけで……いいんですよ。お嬢がだん様の言うとおり、早く結婚なさるおつもりなら、代書屋の収支なんてどうでも」


「うっ、それは……」


 痛いところをつかれて夏月は言葉に詰まった。店の収支を持ちだされると、どうも夏月には分が悪い。ごまかすように視線をそらした先には、まだ昨夜の名残で、走り書きした竹簡と書きかけの手紙があった。竹簡を手にとって読みあげる。


「宛先のひとつは楽鳴省の護鼓村か……さて、どうしましょうか」


 そういえば、幽鬼の名前を聞きそこなったことに、いまさら気づいた。手紙に書いてほしい内容もあいまいだ。話が核心に近づく前に幽鬼が正気を失ってしまったのだ。


「早く運京に来て……か」

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