第一章 万事、代書うけたまわります②
† † †
(結婚したくないなら、代書屋で食べていくしかない……)
そう思っているのに、現実はなかなかうまくいかない。
父親から二刻は説教をされ、ようやく解放されたのは夕刻になってからだった。
「今日の説教もことさら長かった……」
ため息を吐いて可不可と帰る道すがら、大きな商家が集まる目抜き通りに出ると、みな門前に、二階の露台に、
広場に立つ見張り台の前には
「ほら、『
可不可の言葉に顔を上げれば、真っ暗な
階段を上っていく先には、現在、夏月が暮らす藍家の別宅がある。
──『万事、代書うけたまわります』
木板の看板には、力強くも個性的な
名前に鬼を持つその実は、幽鬼を呼びよせる目印だという
城市のなかにありながら、小高い山の陰は行きかう人もない。
最近、父親が嫡母に迎えた後妻が夏月のことを気味悪がるため、本家から移り住んだ別宅だが、初めて見たときから、いかにも幽鬼が出そうな場所だと夏月は気に入っていた。しかも、代書屋の看板を出して遅くまで店を開いていても、誰にも迷惑をかけない。おかげで、夏月は用がなければ本家に寄りつかなくなっていた。
『灰塵庵』とたいそうな名前の
店主の名前は、藍夏月。今年、十六才になる藍家の令嬢である。別宅の管理をする老夫婦の使用人はいるが、夏月付きの管家──いわゆる上級使用人は可不可という青年だけだ。黒髪にやや青みがかった
ふらりと通りかかる近所の人もいない街外れで、商売が成りたつのかと首をかしげたくなる風情の店だが、どこかで
──この夜もそうだった。
「……あ」
深夜、風の音にまじって甲高い音がした気がして、夏月は耳をすました。
死者が客として訪れてくるときには、『
夏月が筆を手にしたまま、作業に没頭していると、可不可が心配そうな声をあげた。
「お嬢、今日は本家に行って疲れたでしょう。もう店仕舞いして早く休んだほうがよくありませんか?」
そう言う可不可のほうが眠そうな顔をしていて、夏月は小さく笑った。
確かに父親の説教は長かったし、後妻の顔を見て疲れたが、帰ってきたとたん、書き物がしたくて夏月は目が覚めてしまった。
「お姉様に頼まれた『幽樂過眼記』を写してしまいたくて……可不可は先に休みなさい」
「じゃあ、お言葉に甘えて先に寝ますね。お嬢もほどほどになさってください」
そう言って、可不可は店を出ていった。空は暗く、月が見えない夜だった。燈籠の明かりだけが頼りなく揺れ、怪しいなにかが
しかし、『灰塵庵』はもともと店を開ける時間がまちまちで、深夜に客が来ることも稀だ。可不可がいないのを心細いとも思わないまま、書きおえた紙を棚に移し、次の紙を文鎮で押さえた──そのときだ。
「夜分遅くにすみません。代書をお願いしたいのですが……」
女の声がした。扉の外に声をかけると、すっと灰色の
「先生、私……
手紙の代書をお願いしたいと言う客は、対面机ごしに震える声を吐きだした。
市井には文字が書ける者は少ない。字を書いたり読んだりしたいときには、みな代書屋に頼みにくるせいだろう。代書屋は先生と呼ばれることが多かった。
「そうですか……それは大変でしたね」
夏月は、どちらかというと淡々とした
「騙されて道に迷って帰れなくなって……真っ暗いなかを
ぽつぽつと話す声には陰がある。うつむきがちな女の顔は暗く、よく見えなかった。燈籠の明かりで部屋が薄暗いせいだけではない。背負った荷物は重くないのだろうか。外套を脱いだあとも荷を下ろさない姿に違和感が漂う。
(この客はおそらく……)
そう思いながらも口にしないだけの賢明さはあった。
『灰塵庵』を訪れる幽鬼は生きている人と寸分変わらない姿をしているが、幽鬼は幽鬼だ。生きている人間とはなにかが違う。ぴり、とうなじがひりつくのを感じた夏月は、
「まず、相手の方のお名前と住所からおうかがいしましょうか」
夏月が事務的に作業を進めると、女はぼそぼそと低い声で返事をする。その言葉を竹簡に書きつけた。最終的には紙に墨で清書するのだが、すぐに消してしまうような覚え書きは、裏山からいくらでもとれる竹簡に走り書きすることにしていた。
「
「え、ええ、そうです。故郷では食べていけなくて……みんな芸を仕込まれたあとは村を出されるんです……」
なるほど、と夏月は村を通りがかったときに流れてきた見事な琴の連弾を思いだした。
運京では食事のときのおもてなしとして、楽奏を披露する店が
(故郷をひとりで離れることになるけれど……)
「……いますぐに来てほしいと。いつものところで待っているからと、そう書いてほしいのです」
問いを重ね、やりとりを竹簡に書きつけながら、女の身なりを確認すれば、
「お客様、とてもいい香を
夏月は世間話をするように声をかけた。
(衣服に香を焚きしめるなんて
「後宮……」
この香をどこで聞いたことがあるかを思いだして、夏月は思わず
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます