第一章 万事、代書うけたまわります②


    † † †


(結婚したくないなら、代書屋で食べていくしかない……)


 そう思っているのに、現実はなかなかうまくいかない。

 父親から二刻は説教をされ、ようやく解放されたのは夕刻になってからだった。


「今日の説教もことさら長かった……」


 はしから落ちたところに父親が居合わせたのは最悪だったが、婚約者との会食を断ったあとなのも間が悪かった。藍思影が夏月に書をやめて幽鬼と関わるなと言うのは、世間体もあるが、基本的には夏月を心配してのことだ。父親が夏月に普通の結婚をしてほしいと願っているのは、夏月もよくわかっていた。

 ため息を吐いて可不可と帰る道すがら、大きな商家が集まる目抜き通りに出ると、みな門前に、二階の露台に、あかとうろうつるし、客の目を引いている。日暮れが近づき、あんどんの明かりがともっていく街は、まるで一面に鬼灯ほおずきの実がなったかのようだ。

 広場に立つ見張り台の前には竿かんとうが立ち、家に帰る人々を仄かに照らしていた。


「ほら、『かいじんあん』が見えてきましたよ」


 可不可の言葉に顔を上げれば、真っ暗なやますそに燈籠の明かりが目に入った。

 階段を上っていく先には、現在、夏月が暮らす藍家の別宅がある。


 ──『万事、代書うけたまわります』


 木板の看板には、力強くも個性的なしゆせきでそう書かれ、ときおり吹く風にゆらゆらと揺れていた。看板とともに鬼灯の朱い実がふたつほど枝ごと飾られている。

 名前に鬼を持つその実は、幽鬼を呼びよせる目印だというわれがあった。

 城市のなかにありながら、小高い山の陰は行きかう人もない。ぶんされたたいびようをいただく山だからだろう。無数の墓が並び、陰の気が満ちた山裾には鬼市──死者が集まる市が立つとの噂があった。

 最近、父親が嫡母に迎えた後妻が夏月のことを気味悪がるため、本家から移り住んだ別宅だが、初めて見たときから、いかにも幽鬼が出そうな場所だと夏月は気に入っていた。しかも、代書屋の看板を出して遅くまで店を開いていても、誰にも迷惑をかけない。おかげで、夏月は用がなければ本家に寄りつかなくなっていた。

『灰塵庵』とたいそうな名前のへんがくが掲げられているわりに、寂れた代書屋だ。

 店主の名前は、藍夏月。今年、十六才になる藍家の令嬢である。別宅の管理をする老夫婦の使用人はいるが、夏月付きの管家──いわゆる上級使用人は可不可という青年だけだ。黒髪にやや青みがかったひとみは、琥珀国にも一定数いる西域系の特徴で、本人もそれを隠さずに動きやすいふくを着ていた。

 ふらりと通りかかる近所の人もいない街外れで、商売が成りたつのかと首をかしげたくなる風情の店だが、どこかでひとづてに聞いてくるのだろう。ぽつりぽつりと深夜に訳ありの客が訪ねてくる。


 ──この夜もそうだった。


「……あ」


 深夜、風の音にまじって甲高い音がした気がして、夏月は耳をすました。

 死者が客として訪れてくるときには、『しよう』という奇妙な音がする。鹿の鳴き声のような、殺された誰かの断末魔の叫び声のような。それは不吉を告げる予兆であり、夏月が待ちわびている音でもあった。

 夏月が筆を手にしたまま、作業に没頭していると、可不可が心配そうな声をあげた。


「お嬢、今日は本家に行って疲れたでしょう。もう店仕舞いして早く休んだほうがよくありませんか?」


 そう言う可不可のほうが眠そうな顔をしていて、夏月は小さく笑った。

 確かに父親の説教は長かったし、後妻の顔を見て疲れたが、帰ってきたとたん、書き物がしたくて夏月は目が覚めてしまった。


「お姉様に頼まれた『幽樂過眼記』を写してしまいたくて……可不可は先に休みなさい」


「じゃあ、お言葉に甘えて先に寝ますね。お嬢もほどほどになさってください」


 そう言って、可不可は店を出ていった。空は暗く、月が見えない夜だった。燈籠の明かりだけが頼りなく揺れ、怪しいなにかがはいかいしそうな不気味さが漂う。

 しかし、『灰塵庵』はもともと店を開ける時間がまちまちで、深夜に客が来ることも稀だ。可不可がいないのを心細いとも思わないまま、書きおえた紙を棚に移し、次の紙を文鎮で押さえた──そのときだ。


「夜分遅くにすみません。代書をお願いしたいのですが……」


 女の声がした。扉の外に声をかけると、すっと灰色のがいとうまとった客が入ってくる。


「先生、私……だまされていたんです」


 手紙の代書をお願いしたいと言う客は、対面机ごしに震える声を吐きだした。

 市井には文字が書ける者は少ない。字を書いたり読んだりしたいときには、みな代書屋に頼みにくるせいだろう。代書屋は先生と呼ばれることが多かった。


「そうですか……それは大変でしたね」


 夏月は、どちらかというと淡々としたあいづちを打った。


「騙されて道に迷って帰れなくなって……真っ暗いなかを彷徨さまよっていたら、朱色の明かりが見えたんです……それで、先生にお願いすれば間違いがないという噂を思いだして、そうだ、手紙を書いてもらおうと思ったんです……」


 ぽつぽつと話す声には陰がある。うつむきがちな女の顔は暗く、よく見えなかった。燈籠の明かりで部屋が薄暗いせいだけではない。背負った荷物は重くないのだろうか。外套を脱いだあとも荷を下ろさない姿に違和感が漂う。


(この客はおそらく……)


 そう思いながらも口にしないだけの賢明さはあった。

『灰塵庵』を訪れる幽鬼は生きている人と寸分変わらない姿をしているが、幽鬼は幽鬼だ。生きている人間とはなにかが違う。ぴり、とうなじがひりつくのを感じた夏月は、づくえ抽斗ひきだしをわずかに開けて、話をつづけた。


「まず、相手の方のお名前と住所からおうかがいしましょうか」


 夏月が事務的に作業を進めると、女はぼそぼそと低い声で返事をする。その言葉を竹簡に書きつけた。最終的には紙に墨で清書するのだが、すぐに消してしまうような覚え書きは、裏山からいくらでもとれる竹簡に走り書きすることにしていた。


あてさきばくよううん様……場所はらくめい村ですか。通ったことがありますよ。小さいですが、音楽をたしなむ者が多い村で、琴の名手──そんとうほこらがあったのを覚えてます。運京へは出稼ぎでいらしたんですか?」


「え、ええ、そうです。故郷では食べていけなくて……みんな芸を仕込まれたあとは村を出されるんです……」


 なるほど、と夏月は村を通りがかったときに流れてきた見事な琴の連弾を思いだした。

 運京では食事のときのおもてなしとして、楽奏を披露する店が流行はやっている。腕に覚えがある者なら、田舎と違い、いくらでも仕事があるのだろう。


(故郷をひとりで離れることになるけれど……)


「……いますぐに来てほしいと。いつものところで待っているからと、そう書いてほしいのです」


 問いを重ね、やりとりを竹簡に書きつけながら、女の身なりを確認すれば、じゆくんの上に綿入れの長衣をまとっている。の図柄の、美しいしゆうが刺してあるところを見ると、暮らしぶりは悪くないようだ。薄闇のなかで、ほんの一瞬、香が漂った。


「お客様、とてもいい香をきしめておいでですね」


 夏月は世間話をするように声をかけた。


(衣服に香を焚きしめるなんてみやびなことができる人間はかぎられている。貴族か、特別に絹の服を許可された身分か……それにこの香りはどこかで……)


「後宮……」


 この香をどこで聞いたことがあるかを思いだして、夏月は思わずつぶやいた。

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