第一章 万事、代書うけたまわります①


〈一〉


 うんけいという城市は、ほうへんあい半ばする町だとげつは思う。

 ここ──はくこくの王都であり、王城を中心に抱く大都会であり、建国してまだ百二十年ほどしか経っていない国そのものより長くつづいている古鎮でもあった。

 城壁に囲まれた町は、近隣の国から人と荷が集まり、田舎城市を三つも四つも合わせたより大きい。目抜き通りには楼閣を持つおおだながいくつも建ちならび、毎日、正月節を迎えているようなにぎやかさだ。運京に来た人は誰もが華やかな王都に目をみはり、商人たちの活気に驚く。一方で、この町はそのにぎやかさとは違う顔を見せるときがある。

 夏月がみの酒楼で頼まれた仕事をしているときもそうだった。


「お嬢、まずいですって……だん様に知られたら怒られますよ!」


 従者の青年・の焦る声をよそに、夏月ははしをするすると上っていった。

 大きな筆を手にしていると、少女らしい線の細さが余計に目立ってしまう。長い黒髪にかんざしを挿し、華美になりすぎないじゆくんにきちんと上着を羽織った姿は、控えめに言っても、職人には見えない。

 鮮やかな朱金の裙子は美しく、遠くからでも目につくのだろう。作業をしやすいようにひもで留めていてもなお、梯子の段を上るたびに花柄の大きなそでが揺れ、良家の子女といったで立ちを印象づけていた。

 残念ながら本当の良家の子女は、筆を手に梯子を上ったりしない。しかし、仕事に夢中になった夏月は、ときには外聞をはばかりもせず振る舞うところがあった。


「海上生明月、天涯共此時……」


 五言律詩を声に出して読みあげながら、壁一面を使って墨書していく。

 酒楼の入口を入ってすぐの人通りが多い玄関だから、通る人はいったいなんの余興かと興味深そうに、夏月が土壁に大きな筆をふるうのを見上げていた。


きんせんろうはまだ羽振りがよくていいなぁ……ほら、下町のほうでは酒楼が何軒もつぶれたそうだ……店員が何人も亡くなったって」


「昨年の夏は本当に最悪だったからな……」


 酒楼に昼食をとりに来た人のなかには、最近の琥珀国への不満をこぼす人も多い。その噂話は、ざわめきにまじって夏月の耳にも届いていた。


 ──運京が違う顔を見せるのは、こういう瞬間だ。


(昨年の夏か……)


 夏月としても、客たちの噂話にうなずきたくなる記憶があったが、仕事の最中に手を止めるわけにはいかない。可不可が掲げてくれる墨の入ったつぼに筆をいれ、梯子の上で重心を置きかえたそのときだ。


「夏月、おまえは……いったいなにをしてるんだ!」


 父親の怒声が響き、夏月は反射的に身をすくませた。白髪まじりの髪を結いあげ、ひげを蓄えた壮年の男だ。がっしりとした体に上級官吏のほうをまとっているところを見ると、仕事で偶然、店を訪れたのだろう。


「お父様、なんでここに……──あっ」


 不安定な梯子の上でふりむいたとたん、ぐらりと梯子の先が壁から離れた。


「お嬢!」


 可不可は慌てて梯子に手を伸ばし、店先で見ていた客の「危ないっ」という警告と悲鳴が響きわたる。


 ──しまったと夏月が失敗を悔いるのと、梯子から落ちるのと、どちらが先だったのだろう。三和土たたきに打ちつけられる衝撃を覚悟していたのに、ふわりといい香りがして、次の瞬間、見知らぬ人に体を抱きかかえられていた。


「この酒楼は、玄関をくぐれば人が降ってくる趣向なのか」


 皮肉めいた口ぶりだが、表情からすると面白がっているようだ。興味深そうに腕のなかの夏月を見下ろして、軽々と床の上に下ろす。まるで重さを感じていない様子だ。


「あ、ありがとうございます……」


 落ちた衝撃と助かったことが信じられないのとで、まだ鼓動がうるさいくらいに速い。しかし、夏月が言葉を失ったのは衝撃のせいばかりではなかった。

 助けてくれた人はたぐまれぼうの青年だったのだ。

 簪を挿した長い黒髪に、服装は霜衣──白い大袖の着流し姿で、町中の酒楼にいるには浮いていた。どこかの貴公子かたいがお忍びでやってきたようなみやびな佇まいだ。異性にことさら興味がない夏月ですら、思わず、その顔に見入ってしまう。


「くくく……梯子から降ってくる娘というのも面白い。料理の余興としては困るが」


(ひとが手に手を重ねて礼を尽くしてるのに、この言い様はどうだろう……)


 押し殺そうとしてもこらえきれないといった様子の笑い声を聞き、夏月は一瞬にして正気に返った。さらには見知らぬ貴人の肩の向こうから、怒れる形相の父親が近づいてきたものだから、ほのかな感情などあっというまに霧散してしまった。


「本当におまえは……おまえは……どうしてそう……」


 心配を通りこして怒りに変わったのだろう。父親の藍えいは言葉が出てこないようだ。夏月の肩をつかむなり、ぶるぶると震えている。


「婚約者との会食に行かなかったそうだな! しゆどういんはおまえと婚約破棄すると言っているし……どうしておまえは普通の娘と違う振る舞いばかり……あげく、曲芸まがいの見世物をするとは。藍家の娘ともあろう者が……結婚相手がいなくなるぞ!」


 頭を抱える藍思影は、自分の怒りでいまにも倒れてしまいそうだ。


「申し訳ありません、お父様……でも、会食はお断りしましたし、夏月は結婚なんてしないと何度言ったらわかってくださるのです?」


 夏月はしおらしい態度で頭を下げつつも、助けを求めて可不可に目をやる。


「旦那様、申し訳ありません。私では夏月お嬢を止めることができなくて……ええ、もちろん引き留めはしたんですけど」


 めんだった。夏月の周りはいつもそうだ。

 文字を書くくらいしか能がない夏月としては、自分の技を必要とされるのはうれしい。頼まれたからには、仕事はきちんとやり遂げたいと思っている。なのになぜか、仕事をきちんとやろうと思えば思うほど父親は怒り、周囲の目は冷ややかになる。


(わたしは、いつもいつも、ただまっすぐに仕事と向き合っているだけなのに……)


 どうしてこうなってしまうのだろうと、父親を前にして頭を抱えてしまう。


「ともかく、家に帰るぞ。おまえへの説教は帰ってからだ」


「でも、まだ仕事が途中で……」


「見世物は終わりだと言ってるんだ」


 父親から強く言われ、渋々片付けをはじめた夏月の姿を見て、余興は終わったと思ったのだろう。見物客たちはまた元の話題へと戻っていく。


「琥珀国の国王にはやはり天意がないのではないか……」


「干ばつはを滅ぼした呪いではないのか……」


 夏月はただ、その言葉に耳をすましていた。

 王朝そのものより歴史が長い城市の人々は、よそ者には王都住まいを自慢する一方で、冷ややかな目で王朝の栄枯盛衰を眺めている。干ばつがつづき、飢えと暑さで死亡する者が増えれば、目立たない場所で誰かが悪い噂をささやく──それが運京という城市だった。

 目立たない二階の奥で、さきほどの霜衣の青年も料理にはしをつけながら噂に耳を傾けている。それがまさか、人界に食事に出てきた神の姿であろうとは、酒楼にいる客や店員はおろか、夏月だって知る由はない。

 しかし、群衆にまじって、神や仙人、はては幽鬼さえ町中を歩いていても不思議はないのが、この古い城市の知られざるもうひとつの顔なのだった。

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