第一章 万事、代書うけたまわります①
〈一〉
ここ──
城壁に囲まれた町は、近隣の国から人と荷が集まり、田舎城市を三つも四つも合わせたより大きい。目抜き通りには楼閣を持つ
夏月が
「お嬢、まずいですって……
従者の青年・
大きな筆を手にしていると、少女らしい線の細さが余計に目立ってしまう。長い黒髪に
鮮やかな朱金の裙子は美しく、遠くからでも目につくのだろう。作業をしやすいように
残念ながら本当の良家の子女は、筆を手に梯子を上ったりしない。しかし、仕事に夢中になった夏月は、ときには外聞をはばかりもせず振る舞うところがあった。
「海上生明月、天涯共此時……」
五言律詩を声に出して読みあげながら、壁一面を使って墨書していく。
酒楼の入口を入ってすぐの人通りが多い玄関だから、通る人はいったいなんの余興かと興味深そうに、夏月が土壁に大きな筆をふるうのを見上げていた。
「
「昨年の夏は本当に最悪だったからな……」
酒楼に昼食をとりに来た人のなかには、最近の琥珀国への不満を
──運京が違う顔を見せるのは、こういう瞬間だ。
(昨年の夏か……)
夏月としても、客たちの噂話にうなずきたくなる記憶があったが、仕事の最中に手を止めるわけにはいかない。可不可が掲げてくれる墨の入った
「夏月、おまえは……いったいなにをしてるんだ!」
父親の怒声が響き、夏月は反射的に身をすくませた。白髪まじりの髪を結いあげ、
「お父様、なんでここに……──あっ」
不安定な梯子の上でふりむいたとたん、ぐらりと梯子の先が壁から離れた。
「お嬢!」
可不可は慌てて梯子に手を伸ばし、店先で見ていた客の「危ないっ」という警告と悲鳴が響きわたる。
──しまったと夏月が失敗を悔いるのと、梯子から落ちるのと、どちらが先だったのだろう。
「この酒楼は、玄関をくぐれば人が降ってくる趣向なのか」
皮肉めいた口ぶりだが、表情からすると面白がっているようだ。興味深そうに腕のなかの夏月を見下ろして、軽々と床の上に下ろす。まるで重さを感じていない様子だ。
「あ、ありがとうございます……」
落ちた衝撃と助かったことが信じられないのとで、まだ鼓動がうるさいくらいに速い。しかし、夏月が言葉を失ったのは衝撃のせいばかりではなかった。
助けてくれた人は
簪を挿した長い黒髪に、服装は霜衣──白い大袖の着流し姿で、町中の酒楼にいるには浮いていた。どこかの貴公子か
「くくく……梯子から降ってくる娘というのも面白い。料理の余興としては困るが」
(ひとが手に手を重ねて礼を尽くしてるのに、この言い様はどうだろう……)
押し殺そうとしてもこらえきれないといった様子の笑い声を聞き、夏月は一瞬にして正気に返った。さらには見知らぬ貴人の肩の向こうから、怒れる形相の父親が近づいてきたものだから、
「本当におまえは……おまえは……どうしてそう……」
心配を通りこして怒りに変わったのだろう。父親の藍
「婚約者との会食に行かなかったそうだな!
頭を抱える藍思影は、自分の怒りでいまにも倒れてしまいそうだ。
「申し訳ありません、お父様……でも、会食はお断りしましたし、夏月は結婚なんてしないと何度言ったらわかってくださるのです?」
夏月はしおらしい態度で頭を下げつつも、助けを求めて可不可に目をやる。
「旦那様、申し訳ありません。私では夏月お嬢を止めることができなくて……ええ、もちろん引き留めはしたんですけど」
文字を書くくらいしか能がない夏月としては、自分の技を必要とされるのはうれしい。頼まれたからには、仕事はきちんとやり遂げたいと思っている。なのになぜか、仕事をきちんとやろうと思えば思うほど父親は怒り、周囲の目は冷ややかになる。
(わたしは、いつもいつも、ただまっすぐに仕事と向き合っているだけなのに……)
どうしてこうなってしまうのだろうと、父親を前にして頭を抱えてしまう。
「ともかく、家に帰るぞ。おまえへの説教は帰ってからだ」
「でも、まだ仕事が途中で……」
「見世物は終わりだと言ってるんだ」
父親から強く言われ、渋々片付けをはじめた夏月の姿を見て、余興は終わったと思ったのだろう。見物客たちはまた元の話題へと戻っていく。
「琥珀国の国王にはやはり天意がないのではないか……」
「干ばつは天原国を滅ぼした呪いではないのか……」
夏月はただ、その言葉に耳をすましていた。
王朝そのものより歴史が長い城市の人々は、よそ者には王都住まいを自慢する一方で、冷ややかな目で王朝の栄枯盛衰を眺めている。干ばつがつづき、飢えと暑さで死亡する者が増えれば、目立たない場所で誰かが悪い噂を
目立たない二階の奥で、さきほどの霜衣の青年も料理に
しかし、群衆にまじって、神や仙人、はては幽鬼さえ町中を歩いていても不思議はないのが、この古い城市の知られざるもうひとつの顔なのだった。
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