エピローグと呼ぶには①

 小松菜緒さんの手紙は、思っていたようなものでとはあまりに違っていた。恋と呼ぶにはあまりに深く切迫した、それでいて曇りのない真っ白な想いにあふれていた。

 こんな愛の手紙を知らない。壮絶な手紙だった。

 落ち着いた字は徐々に力のない、弱々しいものになっていった。それでいて書ききろうとという強い意志が手紙ごしにも感じられた。

 それが唐突に、しっかりとした字に変わる。最初の頃の筆跡と違うことから、誰かが代筆したようだ。綺麗だけど几帳面さの滲む文字で、もしかしたら手紙に登場する彼女のいとこなのかもしれない。

 そして最後には、何とか書ききろうとする彼女の字に戻る。


 彼女は最後にこの手紙を残そうとした。消えそうな命をかけて、彼への想いを綴った。それなのに、手紙の後半を占めていたのは彼の幸せを願う言葉ばかりだった。死に近づく時間を使って、彼女自身の想いを押しつけるのではなく、ただ彼の幸せを想っていた。

 彼女はどれほど彼のことを好きだったのだろう。想いの深さを感じとる。こんな、深い愛に満ちた手紙に勝てるものなんてない。


 読み終えても、呆然として動くことができなかった。とめどなくあふれてくる涙をどうすることもできないまま。


 私の様子をずっと見ていた彼が、男性にしてはしなやかな手を私の頬を包みこむように触れた。彼の長い指が涙を拭うように撫でると、それだけで私はますます泣きたくなった。

 そんな私の心の内を見透かしたように、彼は私の顔を自分の胸に優しく押しつけた。背中にまわした手に優しくトントンと撫でられる。子どもをあやすようなあまりに優しい手つきは不本意だったが、かえって私を落ち着かせた。彼の心臓の音に耳を傾けながら、彼に甘えてしばらく泣いた。


 ようやく涙がとまって彼の腕の中でもぞもぞと動くと、彼は腕をゆるめた。間近にいる彼を見上げると、同じように私を見下ろしている彼と目が合った。思っていた以上に彼が優しく慈しむような顔をしていて、それだけで胸がぎゅっと締めつけられた。


 便箋をもとのように折り、封筒に入れた。本当にぎちぎちに入っていて、戻すのが大変だった。封筒の文字は整っていたから、きっと手紙より先に彼女が書いていたのだろう。どうにか彼女の書いた封筒を使いたかったのだろうと思われた。

 彼に返そうと手紙を差し出すと彼は受け取りながら、この前、と話し始めた。


「この前、初めて小松のいとこに連絡したんだ。彼から手紙を受け取ってから、どうしても連絡する勇気がなくて、こんなに遅くなってしまった」


 私は小さく頷いた。彼は、会うのが怖かったのだろうか。


「小松の墓参りをさせてもらって。連絡が遅くなったって彼に詫びたら、本当何年待たせるんですか、て呆れられた」


 彼は苦笑した。


「でも昔みたいな敵意みたいなものは感じられなくて、それだけ時間が経ってたんだなと思った。彼も、『先生に手紙を渡すかどうか半年迷ったけど、あなたはどんだけですか』て」


「小松さんは自分の想いを知ってほしかった。でもあなたには学校で見せていた元気な姿のままでいたかった。だから病気のことは知られたくなかったんでしょう?」


「そう。だから託されてどちらを選ぶべきか悩んだと言っていた。でもたとえ病気のことを知ったって、俺は病気の小松の姿は知らない。俺の記憶に残るのは元気な姿だけだから、それなら彼女の想いを知るべきだと思ったらしい。彼女がどれほど好きだったか思い知ればいいって」


 彼女のいとこはきっと、命を賭して書いた手紙を渡さないままで終わらせることはできなかったのだと思う。彼女の「先生」への想いが、伝わらずに終わっていいはずがない。手紙は彼女の生きた証そのものだった。

 それがわかっているからこそ、彼には彼女のいとこから受け取った手紙が重かったに違いない。いい加減に扱えないのはもちろん、自分の行く末さえもぞんざいに扱ってはいけないと思ったはずだ。

 でもそれなら、なぜ今だったのだろう。何がそういう心境にさせただろうか。


「どうして、連絡しようと思えたの?」


「それは…結婚したから。俺が好きになった人と、一緒になれたから」


 かすかに言い淀んだ後、まっすぐに向けられた瞳。小松さんの手紙がよみがえる。先生は、先生が好きになった人と一緒になったほうがいい。彼女はそんなことを書いていた。

 好きになった人。彼の視線に、顔が熱くなる。


「どこかにずっと小松の言葉があって、君に再会してからわかった。そういうことなんだなって。小松はずっと、俺自身よりも俺のことがわかってたのかもしれない」


 彼はあまり、自分の気持ちを言葉にする人ではなかった。大切にされているし、彼の気持ちを疑いはしない。だけど彼にとって結婚は世間の流れにそって段階を踏んだだけなのではないかと思っていた。私の気持ちと同等のものではないと感じていた。


「俺が君を好きだと思うほどに君の気持ちがなかったのはわかってたけど、それでも、君と会える機会を繋ぎ止めて、ここまで来た」


「どうしてそんな…、わたしは…」


 私の気持ちがないなんて、どうしてそんなことを言うのだろう。悲しみだけでないやるせないものがこみ上げて、胸が苦しい。


「今の君の気持ちを疑ってるわけじゃないよ。でも君、食事会に参加する前、俺とはそういうんじゃないからって仲を取り持ってもらうの、断ってただろう?」


 彼から思いも寄らないことを言われて呆然とする。何でそんなことを知っているのか。


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