教師の後悔と邂逅⑥
小松菜緒は俺と病院で会ったと言った。彼女は俺が覚えていないだろうと思っていたようだが、彼女の話には身に覚えがあった。あのときの少女が彼女だったとは今でも結びつかないが、病院で飛ばされたストールを拾ったことは覚えている。とりわけ、宙に舞った赤いチェックのストールは、やけに記憶に残っている。
その頃、祖父が病院に隣接していた施設に入っていた。俺を育ててくれたのは祖父だった。寡黙で厳しい人だったが、愛情を注いでもらっていた。そう思えるくらい、大事にされていたのだ。
その祖父は認知症の初期症状があると知るやいなや、すべての道筋を自分で決めた。病院や施設、その先のことも、俺には何の相談もなかった。俺がそのことを知ったのは、すべてが決まった後だった。
俺の動揺もお構いなしに、祖父は施設のことから死んだ後のことまで、エンディングノートまで作っていた。
施設に入ってしばらくすると、認知症の症状が顕著になっていった。がんが見つかったのもその頃だった。俺に迷惑をかけたくないという祖父と、長生きしてほしいと俺とで意見は割れた。祖父の認知症の症状が出ていないときには揉め、けれども結局は本人の意向に従わざるを得なかった。
せめて、少しでも祖父との時間を過ごしたい。俺は足繁く施設に通っていた。
祖父と過ごす時間は穏やかなものだけではなかった。祖父は俺のことを時には医者だと思い、時には看護師、あるいは介護士だと思っていた。俺の父、つまり自分の息子だと思っていることもあった。
認知症になっても祖父は粗暴になったりはしなかったが、かつての優しい眼差しが、俺自身に向けられることはなかった。祖父の優しい目にもう
その日も祖父に会いに行き、車いすを押して祖父と中庭を散歩していた。風が強くなってきたので早めに切り上げたけれど。
しばらくは祖父の病室で時間を過ごしていたが、俺のことをヘルパーだと思っているようだった。祖父は俺にしきりにお礼を言い、若いのに偉いと褒めてくれた。そして、家にいるという小さな孫がかわいくていとおしいのだと話してくれた。
目の前の
祖父の病室を後にして、中庭を通って帰ろうとしたとき、赤いストールを肩からかけた少女が見えた。そのストールには見覚えがあった。先ほど散歩していたときにも見かけたのだ。そのときも少女は同じ場所で、同じような佇まいで、ストールをかけていた。
風が強く吹いている中で、ぼんやりと下の方を見ている少女の姿は異常にしか見えなかった。具合が悪いのだろうか。声をかけるべきか、病院の人を呼ぶべきか逡巡した。
突風がストールを攫ったのは、そのときだった。少女の顔が飛ばされたストールのほうを向き、そして立ち上がろうとした。
俺の足は少女のもとに向かっていた。制するように彼女の肩に触れ、ストールを拾って彼女のもとに戻った。ストールをかけながら声を掛けると、彼女は小さく大丈夫だと答えた。
覗き込んだ少女の顔は覚えていない。ただ、顔色が悪かったことは覚えている。放っておけないくらい儚く、弱く見えた。
学校で見ていた小松菜緒とはあまりに印象が違った。あのときの少女が小松だと聞いた今でも、結びつかない。頼りなく今にも壊れてしまいそうなあの
余命を告げられた後のあの少女が、小松菜緒になるまで。その心の変化の中に自分が絡んでいるなど、ますます信じがたい。それこそ、錯覚だったのではないか。消えそうな灯火の中に映ったのがたまたま俺だったから。そう思わずにはいられない。
だけど一時の錯覚で済ませられないくらい、彼女が俺の幸せを願ってくれていたことはもう疑いようがない。
今さら彼女の想いに誠実に応えることなど、俺にできるのだろうか。
小松菜緒の手紙を捨てることなどできなかった。ただ、教師という職業に懸命に向かい合うことだけが、俺にできる唯一の彼女への誠実のように思えた。
そうして仕事に向き合う日々に追われていたとき、思いがけない再会があった。
大学時代の先輩の結婚式に出たときに、新婦側の招待客に見たことのある人物を見つけた。高校時代の同級生だったその彼女と、俺は後に結婚することになる。
どうやら知り合いがいないらしい彼女は、同じテーブルの人たちと穏やかに談笑していた。彼女のやわらかな笑顔は、高校の頃の記憶のままだった。
彼女に話しかけたのは、席に立ったタイミングがたまたま一緒だったからで、帰りに声をかけたのは彼女が困っているように見えたからだ。
そのときは、そう思っていた。
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