教師の後悔と邂逅④

 小松菜緒の名を再び聞いたのは、新しい学校で働きはじめ、一年以上過ぎてからだった。新しい学校の雰囲気に慣れることや、正規雇用になったことで生まれた仕事への責任とやりがい、時間は目まぐるしく過ぎて、正直なところ、そういう生徒に振り回されていたことはもはや過去のことだった。


 十二月に入り、街はクリスマスに向けて華やぐ一方で、学校は冬休みを待つ浮足立った雰囲気と受験が近づいてきた焦燥感が混じり合っていた頃のことだ。恩師から電話があった。彼は俺の近況などを訊ねてから、卒業生が俺を訪ねて学校に来るかもしれない、と本題らしい話を告げた。


「連絡先は勝手に教えるわけにはいかないでしょう。今の勤務先は少し調べればわかることだし教えたから、そっちに行くかもしれない」


 せめて俺に了解をとってからにしてくれればよかったのに。恩師が勝手に教えてしまったことも意外で、不満は飲み込んだつもりだったが、相手にはしっかり伝わっていた。


「悪いね、どうしても知らないと言えなくて」


 一瞬、小松菜緒のことが浮かんだが、恩師はまったく別の名前を告げた。彼の言ったその卒業生の名前を聞いても、少しも記憶になかった。


「たぶん行くと思うから、頼むよ」


 恩師の声は、やけに切実だった。教えざるを得ないほどの事情があったらしいのを感じた。彼が話さないので、俺も聞くことができなかったけれど。


 恩師からの連絡がきてから、二週間くらい経っていただろうか。仕事を終えて学校を出た後、通り道にある小さな公園の入口に立っていた若い男に声をかけられた。


「先生、お久しぶりです」


 友好的な雰囲気のまったくない様子に警戒したが、その男の顔には見覚えがあった。恩師の言っていた卒業生というのは、どうやら彼だったらしい。

 名前を聞いてもわからなかったのも当然だ。授業を受け持ったことがなかった。


「こちらの学校にいると聞いたので」


「学校に連絡くれればよかったのに。こんなところにいたら、不審者に間違われても仕方ないだろ」


 そうならないようにするの大変でしたよ、と卒業生は言う。なぜ彼は俺に会いに来たのだろう。彼には、敵意しか向けられたことがない。

 彼は小松菜緒のそばにいた生徒だ。彼が単体で俺に会いに来る理由がまったくわからなかった。


「学校に行ってもつないでもらえるとも思えなかったし、電話はつないでもらえても、先生は絶対会ってくれないと思ったので。用件を電話で言えと言われても困りましたしね」


 彼は詫びれることなく、しれっとそんなことを言った。たしかに俺は会おうとはしなかっただろう。

 肩から提げているバッグに手を突っこみながら近づいてくる彼に、少なからず警戒した。卒業しても、俺に向けられる彼の目には敵意しかない。


 これ、と彼が俺に差し出したのは、不自然なほど膨らんだ淡いピンク色の封筒だった。表には「親愛なる先生へ」と書かれていた。その字には見覚えがあった。

 押しつけんばかりに差し出されたものを受け取りながら裏に返すと、思っていた通り「小松菜緒」と署名があった。


 なぜ彼が小松の手紙を持ってくるのか、なぜ彼女はこれを彼に預けたのか、これがいったい何なのか。まったくわからず、説明を求めて彼の顔を見た。彼はただ、唇を歪めただけだった。


「渡したから。じゃあ、失礼します」


 彼にとってこれが義務であったかのように、仕事をこなしたと自分に言い聞かせるようだった。

 呼び止める間もなく、彼はその場を離れようとした。しかし、数歩進んでから踵を返してこちらに向かってきた。

 俺の前で止まった彼は、鞄から付箋とペンを出して何かを書きつけた。剥がした付箋を俺に突きつけた。


「俺の番号です。何かあれば連絡ください」


 押しつけるように付箋を渡すと、彼は今度こそ早足で去っていった。嵐のような彼の襲来に、俺はしばらく動けなかった。


 家に帰って改めて目にした封筒は、見れば見るほどパンパンに膨らんでいた。手紙以外のものでも入っているのかとも思ったが、シールをはがして中を見ると、便箋以外には何も入っていなかった。ギチギチに詰まった便箋は、封筒とは違う色をしていた。そう思ったが、半分に折られた便箋を開くと封筒と同じ色で、途中でなくなったからか、別の色のものを使ったらしかった。


 手紙は「親愛なる先生へ」と始まっていた。


 その長い手紙の内容は思いも寄らないことばかりで、言葉にならない感情に苛まれた。彼女のフィルター越しに語られる出来事は綺麗すぎた。純粋で美しく、俺の見ている世界とは違っていた。

 それでいてあまりに切実だった。彼女の残された時間を、この手紙に充てたのかと思うと、途方もないことに思えた。


 もっと何かできたのではないか。ほかの接し方があったのではないか。知っていれば、何かできた。そう思わずにはいられなかった。

 一方でそれはもう、彼女の望むものではないのだということもわかっていた。どこかに気遣いや憐れみを伴えば彼女は失望したし、それを一切排除して彼女と接することができた自信もない。

 わかっていても、後悔はつきまとった。自分の無力さを感じずにはいられない。彼女の望むものをあげることができていたなら。それが同情にすぎないとしても。

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