教師の後悔と邂逅③

 俺が時折こうして隠れて休憩しているのは、知られているとは思っていた。だがその場所まで知られているとは思わなかったし、ましてや居場所を生徒に教えるとは思ってもいなかった。

 小松菜緒はすでに地元の大学への進学が決まっていると小耳に挟んでいた。もっと上の大学を目指せる力があるので、もったいないと思った記憶がある。自由登校中ですでに合格報告も済んでいる今、彼女が学校に来る理由は見当たらなかった。


「大学、合格したそうだな。おめでとう」


「ありがとうございます。先生のおかげです」


「入試、数学なかっただろう」


「…でも、先生のおかげです。大学に行けるの」


 噛みしめるように、小松は言った。あのときは大げさだと思っていたが、彼女にとっては信じがたいことだったのだろう。


「先生も三月で卒業なんですよね?」


「卒業、じゃないけどな。もともと休職の間だけっていう話だったからな」


「四月からはどうされるんですか?」


「別のところで採用が決まってる」


「先生、するんですか?」


「まあな」


 よかった、とほっとしたように小松は息をついた。


「先生は、先生が似合ってる」


 彼女が細めた目から、マフラーの下の口元が笑んでいるのがわかった。その笑顔は無邪気で、心からそう信じているようだった。

 自分が教師に向いているとも、ふさわしい人間だとも思ったことはなかった。


「先生、理解できるまで絶対に諦めないで教えてくれるでしょう? すごく嬉しかったんです」


「本人が諦めない限りはな。教えるほうが諦めるわけにはいかないだろう」


「やっぱり、先生は先生してるのがいいと思います。わたし、先生の授業も好きでした。全然脱線しないけど、だからって一人で授業してるかんじじゃなくて。いつも、さりげなくみんなの様子見渡しているかんじがして」


 素直に嬉しかった。俺を好きだと言われることよりも、恋をしていると言われるよりも、奇跡だと言われるよりも、ずっと。

 初めて、俺が思っているよりも小松は俺をちゃんと見ていて、好いてくれているのかもしれないと思った。


 彼女は何をしに学校に来たのだろうか。今日はどうしたのか、聞くべきだろうか。俺に会いに来たとか、もう一度答えを聞きに来たとか、そう言われたら。

 だけど俺は聞かなかった。もしそうならば、小松菜緒は自分から言うだろうから。だが、彼女はそんなことは言わなかったし、何も求めなかった。

 ただ、会えてよかった、と小さく呟いた。


「先生に、先生続けてほしいって伝えたかったんです。卒業式の日は、…話せないかもしれないから」


 小松は憂いた表情を見せた。俺はただ、卒業に対する寂しさから見せる顔だと思っていた。卒業式の日は慌ただしく、生徒同士の最後の交流もあって、話す時間がないからそう言ったのだと。

 実際、卒業式当日には彼女と話すことはなかった。式の後、生徒たち同士で写真を撮ったり、別れを惜しんでいる姿の中に、彼女の姿も見かけただけた。


「そうか。そう言ってもらえて嬉しい。ありがとう」


 驚くほど自然に出たお礼の言葉に、小松は目を瞬かせた。それからゆっくりと顔を綻ばせた。


「会えてよかった…。じゃあ、失礼します」


「ああ。じゃあまた、卒業式で」


 はい、と小さく返事をして、来たときのようにまた足音を響かせて帰っていった。


 小松菜緒はあの日、どういう気持ちで学校に来たのだろうか。卒業式の日、話せないかもしれないと言ったのは、どういう意味だったのだろう。卒業式に参加できない可能性も、彼女は考えていたのではないか。

 結局彼女は、恋だの愛だの好きだの、そんな話は一切しなかった。自分の想いが錯覚じゃないと、信じさせてみせると言っていたのに。


 最後に話した日、小松菜緒は自分のための言葉ではなく、俺のための言葉を残した。彼女が常に余命という言葉を抱えて生きていたことを知ってから、その意味を考えずにはいられなかった。


 小松菜緒の姿を見たのは、卒業式の日が最後だった。

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