教師の後悔と邂逅②

 俺は奇跡という言葉そのものから否定したが、小松菜緒は奇跡を信じると言った。彼女はふわりとした口調ながら、揺るぎないまっすぐな瞳をしていた。

 俺と出会ったことを奇跡だなど、いかにも夢見がちな十代の言葉だった。それでいて一点の曇りもなくそれを信じている青臭さが、あまりにも眩しかった。

 小松菜緒のまっすぐに向けられる想いが怖かった。純粋すぎる白さは眩しくて、とても手に負えない。俺になんて近づくべきじゃない。逃げ出したくてたまらなかった。


 そのときだった、一人の生徒の姿が見えたのは。

 その男子生徒は受け持ちの生徒ではなく、名前も知らなかった。だけど顔は知っていた。小松と一緒にいるのを何度も見かけていたのと、いつも敵意に満ちた目を向けられていたからだ。

 彼女は気づいていないのだ。こんなにも近くに、自分を大切にしてくれている人間がいることを。


 青い鳥、と俺は彼を形容した。のちにいとこだと聞いたけれど、それでも彼にとってはそれだけだったのか、俺は今でもわからない。

 いずれにせよ、小松にはもっと身近な人に目を向けてほしかった。あまりにもまっすぐな彼女に向けられる好意が、苦しかった。彼女の想いは、ほかの誰かに向けられるべきものだと、その誰かと恋をすることが彼女の幸せなのだと思った。そうであってほしいと、柄にもなく願ってもいた。


 小松菜緒は俺が、彼女をわずらわしく思っていると考えていたようだが、実のところそこまでではなかった。たとえどんな理由でも成績が上がるのなら、それはそれでいいと思っていた。

 わずらわしいことがあったとすれば、それはほかの教師の目だった。中には「若い先生はいいですね」「顔で成績があがるなんて得ですね」などと露骨な嫌味を言われることもあった。

 たしかに小松ほど分かりやすく好意を示し、成績を上げた生徒はほかにはいなかった。だけど小松以外にも、女子生徒だけでなく男子生徒にも、俺が受け持ってから成績が上がった者もいた。

 生徒の成績が伸びたのは生徒自身の努力によるものだが、それを導くことができたことは俺の誇りでもあった。


 教員免許を取得したものの一度は一般企業に就職した俺が、臨時の教員になったのは恩師に声をかけられたからだ。休職する先生がいて、その間の教員を探しているということだった。新卒で入った会社を辞めて当時塾講師をしていた俺は、転職を考えていたこともあり、採用試験を受けることにした。

 大学時代に一応取っただけの教員免許で今も働いていることは、自分でも意外だと思う。


 教師になるきっかけを与えてくれた恩師は、教育実習の際にお世話になった人だった。小学校時代からずっと、教師とはそつなく一定の距離を保ってきた。思い入れのある先生もいなければ、特別かわいがられたことも、かと言って嫌われたこともない。そんな俺だったが、この恩師と話すのは心地がよく、実習を終えた後も近況を報告していた。

 恩師はいつも穏やかで、笑みを浮かべているような人だった。ふくふくとしていて、縁起のよい神様のようにも見える。

 ほかの教員に言われてもわずらわしさしか感じなかったが、この恩師の言葉には沈んだ。


「愛は偉大だねえ」


 嫌味のような口調ではなく、心底感心したような声だった。それでも、ほかから嫌味を日々言われていた俺としては、どうしても同じようにしか受け取れなかった。

 今なら恩師の言葉が、むしろ小松に向けられた純粋な感嘆だったのだとわかる。この恩師は彼女の担任をしていた。彼女の病気のことは当然知っていただろう。彼が彼女を特別扱いしたり、むやみに気遣っている姿は見たことがなく、その公平さと、気遣わないという優しさを、自分だったらできただろうかと尊敬せずにはいられない。


 小松菜緒の手紙にはなかったが、曖昧な距離感の中で彼女と話したことが、もう一度だけある。卒業式の数日前のことだった。

 授業のなかった俺は、屋上への階段を上りきったところで、学生のように隠れて休憩をしていた。この上なく寒いが、誰の目もないので気が休まる場所だった。


 小さな足音が近づいてきて、階段を上ってきていた。どう取り繕うか、小さくため息が漏れた。


「本当に、いた」


 顔を出したのは、小松菜緒だった。コートに身を包み、首に巻かれたマフラーは顔の下半分をも覆っていた。

 目しか見えなかったが、彼女が顔を綻ばせたのがわかった。


「よくここにいると思ったな」


「たぶんここだって教えてもらって」


 彼女の担任、つまり俺の恩師に聞いたのだと彼女は答えた。

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