教師の後悔と邂逅①
彼女の頬には涙がつたっていた。つたった涙が落下したとき、彼女は手紙が濡れないように慌てて遠ざけた。指で
彼女のそういうところが愛おしい。
彼女はきっと、手紙の内容は思いもしないものだっただろう。どうしても捨てることのできなかった手紙が、彼女を不安にさせてしまった。
彼女の誤解をとくためだけに小松菜緒の手紙を読んでほしかったわけじゃない。無論彼女の不安を消し去ることは前提だけど、きっとそれだけのためなら手紙を渡しはしなかっただろう。自分のことなのに曖昧なのは、自分でも不確かだからだ。
ただ、彼女になら、小松もゆるしてくれるだろうと思った。あるいは俺は、知ってほしかったのかもしれない。彼女に、俺のことを。
小松菜緒が言う通り、自分に向けられる小松の好意には気づいていた。俺に限らず、まわりの教師も、生徒だって気づいていただろう。それくらい、わかりやすかった。
おそらく中学数学から躓いていただろう理解から、めきめき成績を伸ばし、授業にもそれ以外にも積極的だった。職員室に教えを乞いに来た回数は、群を抜いていた。
実を言えば赴任した当初、俺に興味を持った生徒は小松以外にもいた。ただし彼女たちから出てくるのは勉強以外の事柄ばかりで、学業に関わること以外は答えないでいるうちに、彼女たちの熱は冷めていった。
あんなにもわかりやすく好意を向けながらも、小松菜緒は決して踏みこんでこなかった。そういうところを買っていたし、だからこそほかの教員からのそれに対する嫌味は黙殺することができた。
だからこそ、小松菜緒の告白への対応は、精一杯の優しさのつもりだった。何せ彼女は好きだと言ってから、ひどく驚いていた。言うつもりはなかったのに、言葉が思わず出てしまったというに見えた。
それならば、なかったことにするのが優しさではないか。あのときはまだ、彼女の告白はなかったことにできた。あくまでも教師としての好意として受け取ればよかったのだ。
だけど小松菜緒は、なかったことにすることを拒んだ。ならば教師らしく、最大限に優しく応えようと思った。それが彼女を傷つけない方法だと思っていた。
今思えば、それは当たり障りなくその場をやり過ごすことにも似ていた。そして彼女は怒った。私自身に答えがほしい、と。
そもそも、そういった対象ではなかった。生徒は生徒であり、それ以外にはなりえない。生徒でなくなったら、という仮定も意味はない。それを伝えて、理解してもらえるとも思えなかった。
同時に、彼女のまっすぐな想いは移ろいやすいものだと思った。教師や生徒といったフィルター越しの錯覚だろう、と。
卒業しても気持ちが変わらなかったら、などという残酷で無責任なことを言うつもりはなかった。卒業までの時間を無駄に費やすよりも、好きだと思った相手を、ひどい人間だと嫌いになるほうがよいだろう。
柄にもなく自分なりに、教師らしいことも思って突き放したつもりだった。
それなのに小松菜緒は離れてはいかなかった。諦めないと言い残して、帰っていった。
告白したことによって、小松菜緒の態度が変わるのではないかと正直辟易した。たとえば露骨な態度を取るようになったり、プライベートに踏みこんでくることだ。
ところがこちらの警戒をよそに彼女の態度は、拍子抜けするくらい変わらなかった。熱心に授業にのぞみ、質問にやってくる。それだけだった。
あまりに今まで通りだったから、あのときの告白は自分の心配が見せた夢だったのではないかと思ったほどだ。
俺はこれまで以上に教師という線引に気をつけた。これまでだって十分すぎるほどだったから、やりようもなかったけれど。
もうこれ以上、小松菜緒が行動に出ることはないのだろう、と思い直していた頃だった。彼女に遭遇したのは。
停電した校内を見回っていると、まだ残っていた彼女がいた。親の迎えを待っているという彼女に、当たり障りのない声をかけて離れようとしたとき、声をかけられた。
落雷のようだった、と小松菜緒は言った。好きになったときのことらしい。俺は一目惚れなどしたことはないし、わずか一瞬で何がわかるのだろうと懐疑的だった。見た目だけで相手の何がわかるのだろう。彼女は顔の造形ではないと言ったが、じゃあ何なのかということは教えてくれなかった。
そしてまた、奇跡を信じるかと問うた。
俺は信じてなどいなかった。奇跡というには、言葉ばかりがあまりに溢れていた。乱用されている奇跡は、奇跡なんかじゃない。本当の奇跡など、起こりえない。信じるだけ無駄なのだ。
そうだ、俺はたしかにムキになっていたのかもしれない。奇跡という言葉が嫌いだった。夢ばかりを見せる、残酷な言葉だと思っていた。
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