親愛なる先生へ④

 一目惚れ、というのでしょうね。

 でも、前にも言った通り、たしかにその人はかっこよかったけれど、顔が好きだったとか、ひざまずいてくれたのが王子様みたいだったとか、そんなことではないのです。

 だからといって、あの瞬間の彼の優しさに恋をしたなどと、きれいごとを言うつもりもありません。


 先生は覚えていないかもしれないけれど、あのときその人は、とても悲しい瞳をしていました。

 大きな悲しみを抱えて、それを押し隠している顔。表情には一切出さずに、けれども隠しきれない悲しみがにじんでいました。

 わたしには悲しみを見せないようにしようとする強さと優しさ、そのくせそれを隠しきれないもろさ。どちらもが彼の中にあって、それがとても美しく、尊くて、みとれていました。


「具合悪い?」


 何も答えないわたしを心配して、その人は眉根を寄せました。わたしは首を横にふりました。


「大丈夫です。ありがとうございます」


 自分でも驚くほど小さな声でした。たった今生まれた感情をどうしたらよいのかわからなくて、戸惑っていました。恋だ、と自覚したのは、もっと後になってからでした。


「冷えてきたから戻ったほうがいいよ。ひとりで戻れる?」


 その人は本当に優しかった。声が、優しかった。やわらかいほほえみも、優しかった。わたしがこわがらないように心がけているような優しさだった。それが、優しいと思いました。

 彼にうながされてようやく、わたしは立ち上がりました。大丈夫です、と小さく返すと、彼もほっとしたように立ち上がりました。


 わたしを心配する眼差しの奥には、変わらずに深い悲しみが沈んでいて、本当はこの人のほうが傷ついているのではないか、と思いました。思わず抱きしめたくなるほどでした。

 けれども実際はそんなことできるはずもなくて、わたしはもう一度お礼を言っておじぎをしてから屋内に向かって歩きだしました。

 わたしが屋内に入るまで、その人がずっと見ているのを背中で感じました。そのときは彼の優しさだとしか思わなかったけれど、見届けなければ不安になるくらい、あのときのわたしは頼りなかったのだと今ならわかります。


 わたしの中には初めての感情がうずまいていました。気づくと彼のことを考えていて、彼のことを思うと胸があたたかく、それでいて苦しい。もう一度会いたい。

 これが恋なのだと気づいたとき、人を好きになるということはなんて幸せなのだろうと思いました。

 わたしの体調は、医師も驚くくらい回復していきました。


 先生、わたしはここまで書いてもまだ、この手紙をどうするか決めることができません。

 わたしは、わたしの恋の話を、わたしの想いを、そしてわたしの好きになった人のことを、先生に知ってほしい。

 でも同じくらい、わたしのことを知らないでほしい。知らないままでいてほしい。

 このことを知らなければ、自分を好きだと言い続けた変な生徒として先生の記憶に残るでしょう。だけどこの手紙を読んだら先生は、わたしを病気のかわいそうな子だと思う。それがたまらなく嫌なのです。

 わたしは先生にかわいそうだなんて思われたくない。そんなふうに思われるくらいなら、忘れられてしまいたい。


 先生がもしもわたしの病気のことを知っていたら、きっと優しくしてくれたでしょう。突きはなさない代わりに、普通を装った真綿のような残酷な同情で接したことと思います。

 だから、知られたくなかった。告白したあの日、学校で初めてあったわけじゃないと言いかけてやめたのは、それが嫌だったからです。

 告白した日から先生は冷たくなったけれど、それでも同情されるよりずっとよかった。むしろ教師の仮面をつけた先生よりも、先生に近づけた気がしました。同情されるくらいなら、無関心を向けられるくらいなら、感情をぶつけられるほうがよかった。


 入院中に一度、退院してから通院のときにもう一度、あの人を見かけました。わたしは遠くから彼を見つめていました。

 彼を見つけたときの、胸のほのあたたかくなるかんじ。走り出したくなるような高揚と、同時に押し寄せるわけもなく泣き出したくなる不安定さ。

 またあの人に会いたい。だからもっと生きなければならない。名前も知らないその人が、わたしの希望になりました。

 今思えば、名前も知らない彼に会うために、入院し続けようと思わなかったことは何よりでした。わたしは彼のことを何も知ろうとしなかった代わりに、何も見返りを求めていませんでした。


 ただあなたが存在していること、姿を遠くから見られること、それだけで十分でした。

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