親愛なる先生へ②

 先生にとってわたしは面倒な生徒で、わずらわしく思っていたことも、気づいてないわけではありません。赤点に近い点数を推移していたわたしの数学の成績が、先生が担当になってから伸びたこと、先生につきまとうように授業外でも熱心に質問に行ったこと。それが単純によいことと受け取られるだけではないこともわかっています。

 そうしたあからさまな行動は先生じゃなくても苦々しく思っていた人もいたかもしれないし、わたしの告白は思春期の暴走のように先生は思っていたのかもしれない。でもわたしはいつでも本気だったし、必死でした。


 あの告白をした後も、わたしは今まで通り数学をがんばり、質問に行く日々でした。

 あの日から何週間かたった頃だったでしょうか。

 夕方の突然の雷雨。部活の生徒たちの気配はあまりなく、わたしは図書室を出て、特別棟から校舎に移動していました。そして、雷の音とともに停電しました。

 窓の外には土砂降りの雨と、雷の光る空。真っ暗とまではいかないけれど、夕方を通りこして、急に夜が来たかのようでした。


 わたしはぼんやりと、雷の鳴る外の世界を見ていました。

「まだいたのか」

 薄暗い廊下から先生が近づいてきました。停電したので生徒が残っていないか見回っていた、と先生は言いました。わたしは、母が迎えに来てくれるので待っていることを伝えました。

「気をつけて帰りなさい」

 教師の顔をして、先生は通り過ぎようとしました。


「落雷、みたいだったんです」


 先生の背中に声をかけました。先生は訝しげに振り向きました。空は幾度となく光り、前後して雷の音が響いていました。


「雷が落ちるみたいに一瞬で、恋に落ちました。先生に初めてあったときに。一目惚れ、と呼ぶのでしょうね」

「一目で誰かを好きになるなんて、それで何がわかると言うんだ?」

「わたしは別に、先生がかっこいいから、見た目で好きになったわけじゃないですよ」

「じゃあ、何なんだ?」

「内緒です」

 先生が思いのほか反発しているように見えて、思わず口元がゆるみました。わたしの反応に気分を害したのか、先生は再び行ってしまおうとしました。


「先生は、奇跡を信じますか?」


 わたしが呼び止めると、先生は不愉快そうに振り返りました。

「簡単には起こりえないから奇跡というんだ。みんな、奇跡という言葉を多用しすぎている」

 先生がムキになっているように見えて、なんだかおかしかった。いつもすました教師の顔をしているのに、そのときは素の先生を見ている気がしました。暗くて、油断していたのでしょうか。


「先生と出逢ったのは、わたしにとっては奇跡なんですよ」


 多用なんてしていない。わたしにとって先生と出逢えたことは、たった一つの奇跡でした。たとえそれを先生が信じなくても。

 先生はあからさまに顔をしかめました。

「どうしてそんなふうに…」

 かすかに呟いた声が聞こえた直後、ふいに周りの電気がつきました。その瞬間、先生はもう教師の顔に戻っていました。


「青い鳥みたいなことなんじゃないか? 大切なものは本当はすぐそばにある」


 言いながら先生はわたしの後ろに視線を動かしました。

「菜緒、おばさんが探してた」

 振り返ると彼が立っていました。彼の目はまっすぐに先生に向けられていました、あきらかな敵意とともに。

「気をつけて帰れよ」

 先生はわたしたちに背を向けて、今度こそ振り向かずに行ってしまいました。帰ろう、と彼にうながされて、わたしはようやく先生から視線を外しました。先生の言葉はずっと頭の中で、繰り返しわたしを傷つけました。


 先生が青い鳥と言った彼は、わたしのいとこでした。彼が大切じゃないとは言いません。彼がわたしの幸せを思ってくれていることも否定しない。ただそれは兄妹、あるいは姉弟のような存在で、恋とは違うものでした。


 ねえ先生、どうしてわたしの想いを錯覚だと決めつけるのですか? わたしが、子どもだからですか? 未成年だからですか?

 先生はどうして、子どもの恋は、想いは、大人よりも軽いと決めつけるのでしょう。子どもだって本気で人を好きになるし、大人だって本気の恋をしない人はいる。わたしはそう思います。

 大人のように言葉も体験も足りないから自分の想いに気づくすべも伝える術もないだけで、抱えたものの重さに違いなんてないと思うのです。


 わたしが恋に落ちたのが学校ではないと言ったら、先生はわたしの恋が錯覚なんかじゃないと信じてくれますか?

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