プロローグと呼ぶには②

 お互いの部屋は行き来していたし、泊まったこともあるけれど、こうして一緒に暮らすのは初めてだ。カーテンのまだかかっていない窓から差し込む光と、運び込まれたダンボールを見ると、たしかに生活が始まるのだと感じた。

 まずは生活に必要なものから片づけようと思っていたのに、そのダンボールが見つからない。それらしい箱を開けてみるものの、違うものしか出てこない。とりあえずその箱を移動したり片づけていると、ようやく探していた箱にたどり着いた。


 横着して奥のダンボールを無理に引き出したのがいけなかった。その瞬間、バランスを崩した手前のダンボールが落下した。派手な音とともに、中身が散らばる。幸い重いものではなかったようだけど、中身は紛れこんでいた彼の荷物で、申し訳なく思いながら拾い集める。どうやら細々した雑多なものが入っていたらしい。

 手帳らしきものから薄い桜色の封筒が飛び出していて、表に「親愛なる先生へ」と女性らしい文字で書かれていた。封筒は不自然なほど膨らんでいた。

 彼は高校教師をしている。クラス全員からの手紙でももらったのだろうか。手帳は、彼が今使っているものとは違うので、昔の手帳かもしれない。


 生徒からもらった手紙を当時の手帳に挟んでとっておいたのだろうか。微笑ましく思いながら、それを拾い上げる。

 拾った手帳と封筒を何気なく裏返して、手が止まった。封筒の裏には「小松菜緒こまつなお」と表と同じ字体で書かれていた。

 封筒の中身は紙で、おそらく手紙だ。何枚にもわたる、手紙。先生、というからには小松菜緒という人は生徒。おそらく過去の。


 彼はものに執着するタイプの人間ではない。思い出のものでも、ものは手放すような人間だ。だから彼の荷物は多くはない。

 それなのに、彼の手元に残った手紙。あることを忘れていたわけではないと思う。引越しの荷物に入れてきたのだから。

 忘れられない手紙なのか、忘れられない人なのか。いずれにしても、特別、なのだ。


 たいしたことではないかもしれない。心配するようなことでは。杞憂かもしれない。でも彼は客観的に見て、魅力的な人だと思う。もしも自分の高校時代に彼のような若い教師がいたなら、憧れを抱くかもしれない。同級生よりも、どんなに大人で、素敵に映るだろう。

 手紙の封には、封筒よりもさらに淡いピンク色の桜の花びらの形をしたシールが貼ってある。たとえばいたずらのラブレターならば、彼がわざわざ捨てずにいた理由もない。


 今まで何度も考えた、彼はなぜ私を選んだのだろう、という疑問が再熱する。彼からの愛情を疑う気持ちはない。だけど彼がその気になればもっと、条件のいい人がいたのではないか。

 だって私には、女性としての魅力も、結婚に良い条件もない。


「すごい音してたけど、大丈夫?」


 大きな音の後、何の気配もない私を心配したらしい彼が入ってくる。はっとして彼の顔を見ると、彼の視線は私の手もとの封筒にそそがれていた。


「ごめん、ダンボール落としちゃって、拾ってて…」


 それ以上、どう言ったらよいのかわからなかった。中身は見ていない、というべきだろうか。それともこの手紙について聞いてもよいのだろうか。冗談ぽく、ラブレター? と。

 彼はゆっくりと近づいてきた。私の手を包みこむように優しく触れる。私が力を抜くと、そっと手帳と手紙を受けとった。

 彼はじっと手紙を見つめていた。苦しそうな、悲しそうな、傷ついたような表情で。

 やはり彼にとってそれは、特別なのだ。触れてはいけないものに、土足で踏みこんでしまった。たとえわざとでなくても。


 言葉が出てこない私に向かって彼は、手紙を私のほうに向けて差しだした。


「読んで」


 私は慌てて首を横に振った。そんなつもりじゃなかった。人の手紙を読むことはゆるされることではない。


「読んでほしいんだ」

「でも…」


 たとえば私が彼にあてた手紙を書いて、彼以外の誰かが読むのは嫌だ。ましてや彼が、誰かに読んでいいと言ったなら、もっと嫌だ。

 彼女の、小松菜緒さんの心を盗み見るのと同じだ。彼女だって望まない。


「彼女は、小松は、きっと怒らない。きっと読むことを、望んでくれると思う」


 小松菜緒さんのことを理解しているように話す彼に、心がざわめいた。彼はこんなにも切なく微笑む。彼に、こんな顔をさせる女性。


 私は彼の差しだした手紙を受けとった。迷いつつも、のりの弱くなったシールをはがして便せんを取り出した。

 小松菜緒という女性のことが知りたくて、私は手紙を読み始めた――。




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