第9話 虎の尾を踏む
ラフバーン伯爵にとって、セフォンでの出来事は人生における痛恨の汚点だった。
レクトン公爵の配慮によって、エレナの所業は神の奇跡などとされているが、多くの貴族たちは裏の事実を知っている。
――戦を知らぬ令嬢ですら切り抜けられた程度の危機に逃げ出した男。
あの日以来、そんな冷笑が耳に入る。
日に日に、ラフバーン伯爵の怒りは募っていき、ある人物への恨みへと昇華されていた。
「あの女、エレナ・ヒストリアめ……!」
呪詛のこもったような言葉を吐く回数は、日を積み重ねるほどに増えていった。
ラフバーン伯爵の信条は、うまく立ち回って美味しい部分をいただくこと。そこに努力や自己研鑽は存在しない。
あの日まではうまく立ち回れていた。己の無能を悟られず、甘い汁を吸う生活。非戦闘区域のセフォンの防衛隊長という職務に就いたのも、その一貫だ。
ただ何もない、平和な日々が続くはずだったのに。
ラフバーンの立場はあっけなく失墜した。
攻め込んできたグプタ皇国に対する恨みはあったが、それ以上に許せないのがエレナだった。エレナがいらぬことをしたから、こんな目に遭う。
(あのとき、さっさと逃げるなり、死ぬなりしておればよかったものを……!)
伯爵の憤怒はおさまらない。
だが、伯爵は幸運にも、その激情をきちんと収められる場所を見つけた。
さるお方がこう依頼してきたのだ。
――グプタ皇国との和平など笑止千万。我らを食おうとする蛮族などと手を携えられるはずがない。伯爵の力で妨害できないか?
その話を聞いて、ラフバーンは良い作戦を思いついた。
さるお方の望みどおり、和平を破壊した上でエレナまで排除できる作戦を。
(ふははははは! そうだ、これだ!)
ラフバーンは喜びを隠しきれない。なんて名案を自分は思いついてしまったんだ!
ラフバーンに思想はない。和平が進もうと、和平が壊れようとどちらもでいい話だ。大事なのは自分が得をするかどうか。これからの新時代、さるお方とのコネクションはラフバーンの心強い後ろ盾となってくれるだろう。
(私のために死ぬがいい、エレナ!)
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
侯爵家での式典から戻ってきて2週間が過ぎた。
その日の夜もまた、エレナは談話室でアマンと楽しくワインを飲みながら談笑していた。
アマンが多忙なため、毎晩というわけにはいかないが、この夜の会合はエレナにとっては欠かすことのできない日課になりつつある。
酒を飲みながら、取るに足らない雑談を交わすことのなんと楽しいこと!
「子供の頃から剣が得意でね、よく鍛錬に打ち込んでいた。ただ、私は凝り性なのもあってね……練習相手のムクタカにはよく泣きつかれたものだ。もう許してくださいって」
ふふふ、と笑いながらワインをあおり、アマンが続ける。
「セフォンの小聖女の腕前はどうなんだい? 意外と強かったりするのか?」
からかうような口調。明らかに、お前はそれほど強くないだろう? と言外に含んでいる。
おーし、びっくりさせてやろう! という気構えはあるのだが、いかんせん、エレナの腕前がへっぽこなのは事実なので、どうにも起死回生の返事が浮かばない。
「ふふふ、甘く見ないでください、私はですねえ……」
テーブルの上にはフルーツを盛った皿が置かれている。エレナは時間を稼ごうとオレンジと果物ナイフを手に取った。
(ううん……何を言えば面白いかなあ……?)
そんなふうに思うけども、アルコールのせいで頭が回らない。まるで毛布に包まれたような温かさがふわふわと思考を覆っている。
(頭が回らないなあ……酔っ払いでーす)
そんなことを思いながら、果物ナイフを動かす。殺そう。オレンジを真っ二つに切断する。パカっと開いて色鮮やかな果肉が見える。殺すんだ。早く、やつを。オレンジの果肉は実に瑞々しくて唾液が出そう。殺せ、食べられる前に。
(え、ええと……?)
視界がぐらぐらと回転する。
次の瞬間、頭の中が空っぽになった。何も考えられなくなった。
「失礼ですねー。私はね、剣の腕には自信があるんですよ?」
「へえ?」
ぐっとアマンがワイングラスをあおると同時、エレナがローテーブルを乗り越えた。
そのままの勢いで果物ナイフをアマンの喉に突き刺す。
「ぐふぉっ!?」
ワインだか血だかわからないものを吐き出しながら、アマンが椅子から床に転げ落ちる。
エレナはアマンに馬乗りになって何度も凶刃を振るった。高笑いしながら、何度も何度もナイフを振り下ろす。
「な、なぜだ、エル――」
アマンが口を動かさなくなり、喋らなくなってからもエレナは短剣を振り下ろし続ける。絢爛たる翠雲殿の一室に、真っ赤な血とエレナの狂ったような哄笑だけが響き渡った。
そこでエレナ――狂ったようなエレナを外から眺めているエレナ――が我に返る。
(ていうか、何これ!? 何をしてるの、私!?)
エレナは夢から覚めた。
「――うわあ!?」
がばり、と上半身を起こす。そこは3週間前から暮らしている翠雲殿の薄暗い居室。窓からは月明かりが差し込んでいる。
「ええと、夢……?」
間違いなく夢だった。部屋のどこを見渡してもアマンの死体は転がっていない。
顔に手を当てて、エレナは大きなため息をついた。
「なんちゅー夢を見ているんだ……」
頭を抱える。よりにもよって人を殺す夢なんて。
だけど、夢なのか? という気もした。
夢とは、もっとこう曖昧で起きてしまえば、口に入れた砂糖菓子のように儚く消えていくもの――その程度の重さしかないものだ。
だけど、さっきの夢は違う。もっとこう、脳に食い込むような、そんな明瞭さを感じる。
「ううぅん……」
さらに思考が引っかかる。
実は今日だけではない。正直なところ、この邸宅に越してきてからほどなくして、妙な夢を見続けているのは確かだった。
最初の頃はぼんやりとしていたけれど、日が経つにつれて明瞭さを増していった。
今日の今日まで何が起こっていたのかは理解できなかったけど――
「……え、全部、アマンを殺す夢?」
口にしてから、ぞっとした。まさに『なんちゅー夢を見ているんだ……』だ。
(……食べられることを根源的に恐れていた?)
夢の中でも聞こえた。
殺せ、殺せ、と。食べられる前に殺せ、と。
(だけど、食べないって約束してくれたもんなあ……)
本心では不安があるのだろうか。ないと言えば嘘だけど。
色々と思考が駆け巡っていくが――
エレナはぐったりとシーツに顔を突っ伏した。
「うう……あと、なんだか体がだるい……」
なんとなく額に当てた手を、すぐにエレナは引っ込めた。
「熱!?」
明らかに熱が出ている。というか、全身が明らかに
(……体調が悪すぎる……気持ちの悪い夢を見るのも当然かなあ……)
とりあえず、安静にしよう。そんなことを思った。
翌日――
エレナの体調不良は屋敷中に知れ渡ることとなり、ぐっすりと眠ることになった。
(……まあ、屋敷内ニート状態だから、別にいいか……)
今の段階でもエレナの仕事は決まっていない。なので、彼女が一日中寝込んでいても困る人はいなかった。
(仕事は自分で作るもの……ううむ……回復したら、そろそろ探そうかな……)
そんなことを考えつつ、エレナは半分眠りながら時間を過ごした。
ちょうど、夕食の頃だ。
食欲が全くなかったので、メイドが切ってくれた果物を食べていると、アマンと従者のムクタカが部屋にやってきた。
「見舞いに来たぞ」
気を利かせたメイドが部屋を出ていくと、アマンがベッドの横にある椅子に座った。
「気分はどうだ?」
「正直、よくないですけど……少しくらいなら大丈夫です」
応じてから、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「こちら側には来れないんじゃ?」
確か、最初の日にそんなことを言っていた気がするが。
「婚約者の見舞いという理由を鑑みて、この部屋だけなら許可してもらえたよ」
アマンがぐるりと部屋に視線を這わせる。
「残念だ、せっかく入れたというのに、ここに機密事項はなさそうだ」
「ここにあるのは病原菌だけですよ」
そう応じてから、あっとエレナは気がついた。
「……お見舞いしても大丈夫なんですか?」
「おやおや、これは 熱がひどいな。 言っただろ、 了解を得ていると」
「そういう意味じゃなくて、ええと……」
言葉を探してから、エレナが応じる。
「貴人ですから、病気をもらうと困りますよね?」
「ああ、そういうことか……。いいかい、私は第三王子なんだよ」
「……はい?」
「つまり、上には優秀な第一、第二王子がいるということだ。私は意外と自由に暮らせるんだよ」
はっはっはっは、と楽し気にアマンが笑う。
「でなければ、こんなところに送り出してもらえないよ」
「そ、それはそうですね……」
死ぬ可能性が高いのは、エレナだけではなくアマンも同様だ。
「だったら、不吉ですね……不吉な夢を見たんですよ」
「……うん? どんなものだ?」
「私がアマン様を殺しちゃう夢です」
「はっはっはっは!」
本人は大笑いしているが、ムクタカは眉根を寄せて「なんという……」とつぶやいている。
「くっくっく……君が私を殺す、か。どうやって私を殺したのかな?」
「こう……ナイフでブスッと」
「はははは、なら安心するといい。その夢は嘘だから」
「どうしてですか?」
「私の剣の腕は知っているだろう? あなたが刃物で私を殺すことなんてできないよ」
それはそうか、とエレナは納得した。実力差を考えれば、確かにそれは不可能なことだ。
ただの変な夢――
そう片付けたかったけど、それはそれで違和感がある。あのとき、夢の中のエレナが感じていたアマンに対する殺意と憎悪はそれほどに深かった。
(今は、そういう感情はないけど)
あるのはむしろ、ちょっとした親愛さ――
ぶんぶんとエレナは首を振った。
(ななな、何を考えているの!? エレナ・ヒストリア!?)
狼狽したエレナがみじろぎしたときだった。
ばさり、とベッドの端に置いてあった本が床に落ちた。暇なときにぼんやりと眺めていたものだ。
「あっ……」
「動くな。私が拾うから」
そう言って、アマンが長身をかがめて床に手を伸ばす。
男性らしい広くてがっしりとした――無防備な背中がエレナの視界に入る。無防備な。無防備な。無防備な。
エレナには、アマンの背中しか見えていなかった。
その瞬間、意識の中にひとつの言葉が流れ込んできた。
――殺せ。
朦朧とはしていたが、自由ではあったエレナの意識が強烈な殺意で上書きされていく。殺さなければならない。殺さなければならない。
頭が痛くなる。頭痛が激しい。
あっという間にエレナの精神は侵略されて、そこに彼女の意思はなかった。
「う……うう……」
エレナはメイドが用意してくれていた、果物の載った皿に腕を伸ばす。そこにある果物ナイフを手に取った。
無防備な背中、首筋。そこに振り下ろせば――
「ううううううううううう!」
殺す。
頭の中にある、その意思を遂行するために、エレナは振りあげた刃をためらいなく振り下ろした。まるで、死刑執行するためのギロチンのように。
白銀の刃が、褐色の肌へと迫る。
「何をしている、貴様!」
横合いから声がして、ムクタカが一気に間合いを詰めてくる。
ムクタカの手がエレナの腕ごと凶刃の動きを止める。そのまま容赦なく腕をひねり、エレナをベッドに押し倒す。
どしん、と衝撃を受けて、エレナの意識は闇に落ちた。
「……うん、どうしたんだ?」
のんびりした声を上げながら、アマンが身を起こし、ベッドの状況を見た。
「おいおい……何がどうなっているんだ?」
「先ほど、このものが殿下のお命を狙おうとしておりまして」
果物ナイフを奪い取ってから、ムクタカはエレナの手を解放した。意識を失ったままのエレナは反応を見せない。
「お前の刃では死なないとか言っておきながら、1分と経たずに死にかけるのはやめてください」
「恥ずかしい限りだ。だが、仕方があるまい。殺気を完全に隠し通していたからな」
アマンは真っ青になっているエレナの顔を検分する。
「殺気がなかった……?」
「感情の動きを何も感じなかった。だから、反応できなかったんだ。実はエレナが殺気を隠せるほどの達人なのか、でなければ――」
それ以上の言葉を口にせず、じっとアマンはエレナの顔を眺めている。
「……このもの、いかがいたしましょうか? 殿下に刃を振るった以上、死罪ですが」
「明るみに出ると、和平への道も終わってしまうな」
アマンが肩をすくめる。
「もしも、彼女が何者かに操られていたとしたら? 人形ならば殺気を放つこともあるまい」
アマンの右手に、宝石のように輝く魔力の粒子が現れる。
「何者かが、私の愛しい婚約者によからぬことを仕掛けている可能性がある。だが、私の力をみくびったな。私は付与術にもそれなりの自信があるのだよ」
アマンが右手を払うと、魔力の輝きが空気に散る。
「婚約者を守り、敵対者を探る――教えてやろうではないか、誰の逆鱗に触れたのかをな?」
アマンの瞳に、怒りの炎が灯った。
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