第8話 あなたは人を食べたことがありますか?
侯爵家のメイドたちに話を聞きながら、アマンが休んでいる部屋へと向かう。
エレナはドアをノックした。
『何者だ? 今ここは立ち入り禁止だ。無断で入れば斬るぞ』
怖い。
ドアの向こう側から聞こえてきたのは、少々張り詰めたムクタカの声だ。
「あのー……エレナです。入っちゃダメですか?」
『ダメです。お帰りください』
敬語にはなったが、取りつく島のないツンケン具合だ。
(むむむううううう!)
一応、婚約者という形なので、そうあしらわれると気分は良くない。
「心配なんです! ダメですか?」
『ダメです』
にべもない。
(ううむ……やっぱり、私は『お客さん』だなあ……)
近いようで遠い、それが現実だ。
仕方がない、戻るかあ……と諦めかけたとき、部屋の中でボソボソと会話が聞こえてきた。
しばらくすると、ドアが開く。
「殿下が許可されました。お入りください」
ムクタカの声も表情も不満ありありだったけど。
部屋に入ると、
「心配してくれて嬉しいよ」
そんなことを言って、アマンが迎えてくれる。
(わっ!?)
どうやら手当て中らしく、上半身の服を脱いでいる。引き締まった褐色の肉体のあちこちに打ち身のあざがある。
「痛そうですね……」
「戦闘をした以上、仕方がない。なかなかの使い手だったからな」
模擬戦で使っている武器は致命傷を軽減してくれるが、鈍い負傷は受けてしまう。余裕で攻撃をさばいていたように見えたが、なかなか激しい戦いだったのだろう。
実際、表情にも疲れの色が濃い。
「外にいたときは、もっと元気そうだったのに」
「ははは、あそこで私は試されていたからね。からいばりさ。ハッタリも必要なんだ」
そして、こう続ける。
「次期剣聖は言い過ぎだが、それなりの使い手だったよ 。秘技を出されたときは肝が冷えた」
「よく凌いで――逆転しましたね?」
「言っただろう? 君のために勝つと。カッコいいところを見せたい一心で頑張ったんだ」
「ありがとうございます」
今度は冷静に受け止められた。
少なくとも、今の一言だけはその場のごまかしだと勘づいたから。
「……目と髪が赤くなったのが見えたんですけど」
「ほぅ」
アマンの返答は短かった。しかし、その次の句が続かない。細めた目でじっとエレナを見つめている。その本心を透視しようとするかのように。
わかりやすい反応は従者たちだった。殺意にも似た剣呑な空気を纏っている。
(うへえ、なんか踏んじゃった?)
間違いなく踏んだ。もちろん、そこで止まったりビビったりするつもりはない。
「で、あれはなんなんですか?」
さらに一歩、踏み込んでみた。
沈黙。
(まさか……いきなり、斬り殺せ? とか言わないよね?)
言ってみた後、微妙にエレナはビビった。
ようやく思案を終えたアマンが口を開く。
「……ふふ、我が婚約者はなかなかめざとい。ムクタカ」
「はい」
「全員、部屋の外で見張りでもしておくように。ドアの向こう側で聞き耳を立てられても面白くない」
「……え、いや、しかし……」
「命令だ。聞けないのか?」
「わかりました」
短く答えると、ムクタカたち従者は部屋を出ていった。
残されたのは、エレナとアマンの二人だけ。
(ていうか、服を着てくれえええええ!)
思いっきり諸肌を脱いでいるので、目のやり場に困る。男性なので、全く意に介していないようだけど。そんな狼狽をエレナは心の中で押し殺す。どうでもいいことだが、ウブではない、大人の女路線を保ちたい。
「教えていただけるのでしょうか?」
「あなたも知っていたほうがいいだろう。あれは『血の力』だよ」
「血の力」
エレナは首がきゅっと閉まるような感覚に襲われた。
これが物語であれば、先祖由来の力という解釈も成り立つが、グプタ族が口にする場合はより剣呑な意味を持つ。
グプタ族は人の血を飲み、飲んだ血を力とする。
「ええと、今まで飲んだ血の力、ということですか?」
「ああいう感じで使えるのは少数で、普通は目が赤くなったりもしないけど――その理解で正しいよ」
それはつまり。
「人の血を……飲んだことがあるんですか?」
口にしてから、バカな質問をした、そうエレナは思った。血を飲む種族なのだ。当然に決まっている。人にパンを食べたことがありますか? と聞くのと同じだ。
だけど、やはり聞かずにはいられない。
エレナは人間だから。食われる側の生き物だから。喋れるようになった牛が人間に尋ねる質問はきっと同じだろう。
アマンが微妙な表情を浮かべた。それはなんとも表現できないほどに微妙だった。優しく笑ったようにも見えるし、少し悲しそうにも見える。あるいは、別の感情かもしれない。
そして、短く答えた。
「ある」
「……」
部屋の温度が3度ほど下がったように、エレナには感じられた。感情が掻き乱されている自分に驚く。そんなことは自明で、失望することでもないのに。きっとそれは、心の中で、そうあって欲しくない、そんな感情があったからだ。
(……どうしてそんなことを願ったんだろう)
自分の心の分析ができていないエレナに、アマンが言葉を続けた。
「飲んだのは小さい頃の話だ。親にそう言われて、そうした。それ以外の価値観はなかったから。ここからが大事なことだが、今はもうしていない。もう何年も。そして、これからも」
はっきりと言い切った後、じっとアマンがエレナに視線を送る。
「あなたにとっては喜ばしい情報だったらいいのだけど」
「それは――」
ホッとする気持ちがあるのも事実だ。食べられたらどうしよう。比喩的な意味ではなくて。そんなことをずっと思っていたから。ズケズケ質問するタイプのエレナだったが、答えを聞くのが怖くて今までその質問だけはできなかった。
「でも、大丈夫なんですか?」
「何が?」
「吸血が食事なんですよね?」
「少し違う。とても重要な嗜好品というのが正しい。君たち女性は甘いものが好きだが、なくなっても生きてけるだろう? それに近い」
「いや、生きていけないですよ?」
「そんなに大事だったのか、ちょっと読み誤ったな」
小さく笑ってから、アマンが続ける。
「まあ、ただ、なくても生きていけるとはいえ、普通の嗜好品とも違ってね……わりと大事なものだ。その重さは、そう、三大欲求に近い」
「それは重すぎでは?」
「そう、重いんだよ。だから、ほとんどのグプタ族は吸血をやめることができない。だけど……」
ふぅ、と息を吐きながら、アマンが首を振った。
「もう我慢しないといけない。食う側と食われる側――この関係を清算しない限り、私たちの闘争に本当の終わりはこないから」
その言葉には断固とした意思があった。どんなことがあってもやり遂げる、そんな精神が。それを感じることができたから、エレナの背筋は無意識のうちに伸びる。
「本気なんですね?」
「本気も本気さ。だからこうやって、あなたと一緒に生きていこうとしている。我慢するよ。たとえ君が食べちゃいたいくらいかわいいと思っても」
「ここで言うタイミングですか、それ?」
「今、言うしかないと思ったんだけどね?」
表情に浮き出そうな照れを内心に押し込んで、エレナは思考に集中する。
「……あの、我慢できるものなんですか?」
眠るのを我慢するとか無理! という感じなのだけど。
「まあ、何年も我慢しているから慣れているけど……こう、胃袋よりももっと根源的な部分で飢餓感あるのは事実だ。満たされていない、というか。別にそれで死ぬことはないのだけどね」
「……つらくはないんですか?」
「つらいかどうかで言うならば、つらいね。だけど、仕方がない」
「死なない程度にちょっとだけ血を吸うとか?」
「ふふふ、そういうのができればいいんだけどね……どうも血を吸うというよりは、命――あるいは魂を摘むことが大事なんだ」
つまり、殺すということ。
「それも同じくらい高等な精神を持つ相手、人間のね」
(うええええ……条件の縛りが厳しい……)
血を飲むなら、人間を殺すしかない!
「だから、我慢するしかない。とにかく我慢して我慢して――同族にできることを示す。それが王族である私の役目だな」
「……我慢できなくなったら、どうしますか?」
「考えたくはないけどね。そうだな、そのときは――」
アマンが右手を広げてみせた。
「この手を握りしめて、私が欲求に耐えられるよう側にいてくれないか?」
「そんなことでいいのなら」
特に疑問もなく、エレナはアマンの手を手に取った。ひんやりとした手で、男らしい骨ばった感触が伝わってくる。
少し困ったような様子で、アマンが口を開いた。
「驚いた」
「何がです?」
「まさか、今、手を握られるとは思っていなかった」
「あ」
なんとなく会話の流れで握ってしまったが、はやまってしまった!
「ご、ごめんなさい……! うっかり……」
「いい、離すな。むしろ、嬉しいくらいだ。あなたから距離を詰めてくれるとはね」
エレナは、むうっと小さく音を吐く。どうにも感情の座りが悪い。仕方がないので、手を握ったままにする。
結局、エレナは100歩譲ることにした。侯爵が非礼を働いたのは事実だ。同じ王国貴族として申し訳ない気持ちもある。この程度の役得なら許してもいいだろう。婚約者だし。甘えてくれるのは、少し可愛い気もするし。
「……あなたが、本物の聖女でなくてよかった」
「どういうことですか?」
「セフォンの小聖女だよ」
「ははは……言ってみただけ感ですからね……」
実際のところ、エレナは聖女という肩書きと縁もゆかりもない。発端は、エレナの英断によってメンツを丸潰しにされたラフバーン伯爵の名誉を守るためだった。
エレナの機転により、という理由だと伯爵がバカということになるので『エレナは神からの啓示を受けた』という謎設定が追加された。
(そんなの聞いたことないわ!)
聖女という肩書がついたのはそのためだ。
ただ、聖女という役職は本当にあって、教会によって認定されないといけないのだが、そんなものが認められるはずもなく、
「じゃあ、小聖女でいこう!」
という冗談のような抜け穴ルートで『小』がつけられることになった。ちなみに、小で落着したのは教会への配慮らしい。
(ちょっと無茶苦茶すぎない、これ……?)
右往左往という言葉がぴったりと合う、ふざけた命名だった。
「私に聖女の要素は微塵もないですよ」
「ああ、そうだな。本物の聖女であれば、こんなふうに手を握ることもできないから」
「……え、どういうことですか?」
「聖女は君たちにとっては救国の英雄だが、敵対する我々にとっては悪魔だった――その力は、触れただけでグプタ族の皮膚を灼いたらしい。つまり、君が聖女であれば、こんなふうに手を握ることすらできないわけだ」
にこっと笑って、アマンが手を離す。
「聖女伝説は200年前の話――それ以降は聖女も顕現していない。その存在は大きく世論を動かすだろう。和平に向かい始めた両国のために、伝説のままでいてもらいたいものだ」
服を身にまといながら、アマンがそんなことを言う。
身だしなみの整えが終わった。
「話している間に落ち着いた。主賓として堂々と戻るとしようか?」
そんなことを言って、アマンが再び右手を差し出してくる。
「お手をどうぞ?」
即反応できるほどの、令嬢力をエレナは持ち合わせていなかった。
右の手のひらに残る、握られていた感触もあいまって小っ恥ずかしさが先に立つ。どうしようか、そんな迷いが立ち上がってくるけども、それを振り払うように手をアマンに押し付けた。
内心は爆発寸前だったけど、むっちゃクールを装う。
「……今回だけですよ」
「構わない」
アマンは目元を柔らかくして、優しい声色で応じた。
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