第5話 新居にお引越し
「お父様、お母様。今までありがとうございました。お元気で」
両親に別れを告げて、エレナは馬車に揺られて家を出た。目指す先は、第三王子アマンと暮らす家。
馬車の外に目をやり、流れ去っていく王都の景色を記憶に焼き付ける。いつでも思い出せるように。あそここそが私の育った世界と胸を張れるように。
長い長い旅の果て、エレナは遠い異国に――
行かなかった。
むしろ、王都にある貴族街の一角なので、すぐそこだったりする。アマンとの同居生活はグプタ皇国ではなく、この王国の王都で行われるからだ。
(てっきり、あっちに行くのかと思っていたけど……)
馬車が邸宅に到着した。
建物にもまた『格』が存在する。その序列の観点だと、この建物は最上のランクに位置する。
建物の名前は『
この国の王族が所有し管理する、歴史と由緒ある建物だ。この度、長期滞在することとなるグプタ皇国の第三王子が住む家として貸し出されることとなった。
つまり、エレナもまた、ここで暮らすことになる。
そして、興奮しまくっていた。
(ふおおおおお、いいんですかあああ、本当に、いいんですかあああああ!?)
翠雲殿もまた、多くの歴史の転換点に立ち会った建物だ。
遠くから見ることしかできなかったのに、一度くらいは入ってみたいな――低級貴族には無理だろうな……と思っていたら、いきなり住むことに。
(むっはー! 役得! 役得!)
昂っていた。
もちろん、そんな様子を外に出すわけにも行かないので、外見上は落ち着いていたが。
「到着しました、エレナ様」
「ありがとう」
同乗していたメイドに手を引かれて馬車を降りる。
時代を感じさせる両開きのドア(ちなみに、このドアの前に立つだけでエレナの胸には他人には理解できない歴史的クソデカ感情が溢れた)をメイドが押し開く。
「――!?」
ドアを開くと、そこは大きなエントランスホールになっていて、多くの使用人たちがずらりと並んでいる。彼らはエレナを見るなり、深々と頭を下げた。
「これからよろしくお願いいたします、エレナ様」
そんな多重音声が耳に届いた。
エレナは圧倒されていた。もちろん、貧乏子爵の家とはいえ、数人の使用人は雇っているのだけど、ちょっと数が違いすぎる。そして、質も。おそらくは王宮でも選りすぐりの人間がいるのだから。おじぎの仕方ひとつとっても『格』がある。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします……」
使用人たちのものに比べれば、はるかにショボいギクシャクしたおじぎを返した。
案内された部屋もまた、エレナ的には凄まじかった。もちろん、部屋の広さが実家の3倍くらいありそうなのもあるが、
(ここ、吟遊詩人ユリアンが恋文を書いた部屋じゃないの!?)
もう、それだけでご飯が3杯はいけそうだった。じゅるり、と唾が出てしまう。歴史的な価値がある建物は、歴史オタクの令嬢の心臓に悪い。
これはもう、思う存分、妄想に浸ろう。妄想しちゃおう。
そんなことを思っていたが、そんな暇はなかった。引っ越し初日だけあって、色々な場所に連れ回されて、色々な人に顔合わせをすることになった。
「私は執事長のシグルスです。よろしくお願いします」
「私は料理長のクレアルです。よろしくお願いします」
「私は庭師のバイロットです。よろしくお願いします」
普通ならば、そんなに覚えられません! と頭がパンクするところだが、エレナの優秀な頭脳は受けきった。日頃、歴史に登場する名前(特に親戚だと似通っていて紛らわしいことが多い)を暗記する習慣が役に立った。
とはいえ、いつもなら不要不急な妄想に浸っている脳を久しぶりにフル稼働したので、エレナの脳はぷすぷすとエンスト寸前になった。
(……ああ……もう、ダメ……)
ようやく解放されたのは夜もふけた頃で、疲れ果てたエレナはベッドに倒れ込んだ。
あとはそのまま眠りにつけば――
実際、うとうとと仕掛けていたのだが、そこでノックの音が耳に届いた。
『エレナ様。もうお休みになられたでしょうか?』
専属メイドの声だ。はい、もう閉店です。起きているのはたまたまです。確率的には寝ていてもおかしくはない世界線です。そんなわけでおやすみなさい。と強制的なスリープに移行しようとしたエレナだったが――
『アマン殿下がお呼びです』
「はーい! すぐに行きます!」
その瞬間、エレナは飛び起きた。絶対に無視を決め込んではいけない誘いだからだ。
案内されたのは、2階の中央にある部屋だった。入ってみると、そこは高級応接室という感じの場所で、先客がいた。
アマンがソファに座っている。
先日に比べて、服装はずいぶんとラフになっている――もちろん、そこまで崩れたものではなく、お高いもの感はあるのだけど。目つきの悪い付き人の姿はなかった。
「あなたと一緒に時間を過ごしたいと思ってね。迷惑だったかな?」
「いえ、ご随意に、殿下」
「ふっ……固いな? 一応、婚約者だぞ?」
「まだ慣れないので……」
「そうか。なら、慣れてもらおうか。そこに座ったらどうだ? 話をしよう」
アマンは同格に接してもいい雰囲気を漂わせているが――
他国の王族と子爵。そこには厳然とした格差が存在する。貴族社会に生きるものとして、それを易々と超えるには、かなりの抵抗がある。
エレナが座ると、アマンが近くの棚からワインを取り出し栓を抜いた。続いて、テーブルに置いたグラスに赤い液体を注ぐ。
「少し飲みながら話そう」
この世界で飲酒に関する年齢的な規制はない。だいたい、大人になったら? くらいの実にアバウトなルールだけが存在する。なので、エレナが酒を飲んでも問題はない。
(……あんまり飲んだことはないけど……)
えい、と軽く飲んでみる。口内に広がるフルーティーな香りと口中を彩る優しい酸味。意外とおいしいじゃないの、とエレナは思った。
「味はどうかな?」
「とても美味しいです」
「それは良かったよ。このワイン、本国から持ってきたものでね……お気に入りなんだ」
ふーん、と思いながら、なんとなくラベルが視界に入る。
令嬢の嗜みとして、ワインの価値についてはそれなりの教育を受けている。敵国のワインでも、有名なものは知識にある。
だから、そのラベルは知っていた。
むっちゃ高いやつだ。
「ぶはっ!」
盛大にむせた。
一本だけで庶民が半年は暮らせるほどの超高級品。貧乏令嬢には圧倒的に不釣り合いだ。エンゲル係数が破壊される。
「そ、そんな恐れ多い!」
「君と初めて飲むワインだよ。記念にしたいんだ」
相手の立場を思えばやりすぎという話でもない。外交だの歓待だのというものは、値段でマウントとって殴り合う部分があるのも事実だ。
(いやいや、私はそんな大したものじゃないと思うんですけどねえ……)
どうにもエレナだけが状況についていけていない。
少し呼吸を整えてから、話題を切り出した。
「……まだ翠雲殿にはいらしゃっていないと思っていました」
「え、ああ……存在感がなかったかな?」
「そういう意味では……!」
「いや、それで正しい。理由があるんだ」
アマンは、エレナが入ってきたドアとは逆側を指差した。
「今日、いろいろと屋敷を見学したと聞いているが、あちら側には行かなかっただろう?」
「言われてみると、そうですね……」
確かに、エレナの脳内にある翠雲殿の構造図には黒い部分がある。てっきり、邸内は全て見回ったと思い込んでいたのだけど。
「何か理由があるのですか?」
「あそこからは、我々――グプタ皇国の人間だけに解放されている」
「……そういう、ことですか」
全てを理解した。
もちろん、それは両国の微妙な関係を表している。
「逆もまた然りでね、我々も邸内での行動を制限されている。君たち側には入れないわけだ」
皮肉めいた笑みを浮かべてから、アマンが続けた。
「つまり、我々に与えられた小さな領土というわけだ」
「そして、ここは国境というわけですか」
「まさに、この密室こそ外交の最前線にふさわしい。互いの未来を賭けた剣ヶ峰だ」
その後に、アマンは思い出したように付け加える。
「だけど、国に引き離された恋人たちが出会う場所としても申し分ない」
外交の場か、逢引の場か。今はどちらでもあるのかもしれない。
はははは、とアマンが大きく笑う。
「今のところ、あなたであっても、先に通すわけにはいかない。申し訳ないが」
「いえ、それは構いませんが……であれば、しばらく別居でしょうか?」
同じ家には住んでいるのだけど。
「そうなるな……。いずれは解消するべき問題だが、それよりも優先度の高い問題が山積している。棚上げもやむなしだ」
そこでイタズラっぽい笑みをアマンが口元に閃かせる。
「あなたにとっては悪くない話かな? よくわからぬ男と一緒の部屋で暮らすなど、心地よくはないだろう?」
「い、いえ、そ、そそ、そんなことは……」
むっちゃそんなことはあるのだけど、立場上の返事はそうしかできない。だけど、そのまま言われっぱなしも口惜しいので、少し差し返すことにした。
「でも、それは殿下だって同じことでしょう? よくわからない女といても――」
「最低な答えを返すのなら、一般的に男は、知らない女性であっても問題ない」
「それは確かに、減点10ですね」
かなり甘めに採点して。ちなみに、減点5で平手打ち1発に値する。
「だけど、今回のケースは違う、私はあなたと一緒に暮らしたいと心から思っている。これでも減点されるのかな?」
「――」
エレナは返答に窮した。
いまいちアマンの本音が見えない。発言した当の本人は、楽しいイタズラを仕掛けた子供のようにニヤニヤとしている。
そして、酒をカパカパ飲んでいる。話の最中からなので、ペースはかなり早いようだ。
(むむむ! 人をからかって!)
なので、こう答えた。
「冗談はおやめください、殿下」
「どうして冗談だと思うんだい?」
「だって、私のことを知らないでしょう?」
「知っているよ。君はセフォンの小聖女だ」
「そんなもの――ただの肩書きです」
「いや、君もまた私のことを知らない。セフォンの事件は私にも関係していてね……あの騒乱を見事に抜け出したのはあなただが――鎮圧したのは私だ」
「……え?」
「和平交渉を裏で進めている段階だったので、かなり焦ったよ。君たちの国民感情が悪化すれば、流れてしまう可能性もあったからね。なんとか兵の暴走を止めようと思ったが、私は手遅れだと判断していた。きっと小さな村は飲み込まれて――食い潰されるだろう。私は彼らの後を追いながら、そうなった未来をどう収めるか、そのことばかり考えていた」
アマンの目が床をじっと見つめている。まるで、そこに投影された己の顔を見るかのように。
「だけど、そこで奇跡が起こった。君が起こしたんだよ、エレナ」
その視線が動き、しかとエレナをとらえた。
「名もなき貴族の令嬢がそれを成し遂げたと聞いて、私は驚いたものだ。そして、その日からあなたの存在は私の中にずっと留まり続けていた」
追憶するかのように、じっとアマンが視線を遠くへとやる。
(いや、むっちゃこっち見てるんだけど!?)
遠くへとやっているが、その遠くはエレナの向こう側だった。まるで、エレナを通して、過去のエレナを見ているようだ。
無駄に顔が整っていて、微妙に酔っているので、謎めいた色気がある。そんな目で見られると、どうにも心臓に悪い。
「正直……今回の結婚話にはあまり乗り気ではなかった。和平の形を示すためには仕方がないと諦めていた。美しいだけの、現実を知らない王女や令嬢が差し向けられるのかと思ったいたら――まさか、セフォンの小聖女とは」
アマンの目尻に優しいものが混じる。
「想像していたとおりだ。あなたは思慮深くて面白い人物だ。世の中、悪い話ばかりでもない」
そんなことをつぶやいて、じっと見つめる。
一方、エレナは頭の中が
(は、へ、え……へあ!?)
入ったアルコールの効果以上に、ちょっと脳内が熱くなっている。
(こ、これは、なに、ひょっとして……むっちゃ口説かれている……!?)
人生初の可能性におののいていた。
いやいや、ちょっと歴史が好きなだけの変人令嬢ですよ!? 自己認識がそこで止まっているので、アマンの言葉を素直に受け取ることができない。
(からかわれている! からかわれているに違いない!)
パンク寸前の頭がひねり出した言葉を口にするのがやっとだった。
「酔われておりますよ、殿下は」
「そうだな。少し話しすぎたかもしれない。楽しい酒だったからな」
一旦、外した視線を再びエレナに向ける。
「今は一緒の部屋で暮らすことも叶わないが――この部屋であなたと話をしたい。また声をかけるが、来てくれるか?」
疑問系ではあるけれど、もちろん、エレナに選択肢はない。言える言葉はひとつだけ。
「仰せのままに、殿下」
エレナとアマンには立場の差がある。だから、エレナの返事は肯定以外にはない。だけど、それが本音とは違うかどうかは別の問題だ。
エレナ本人がまだ戸惑っている状況なのだけど。
「やはり、まだ固いな」
そんなエレナを見て、アマンが苦笑を浮かべた。
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