第37話 鍵を探して③

 どれくらい、そうしていただろうか。

 赤く染まっていた空は、いつの間にか藍色に染まり始めていた。


 スンスンと鼻をすするエディの背を、ロキースの大きくて温かな手がゆったりと撫でてくれる。


『話が、ある』


 涙のあとが消えたのを見計らうように、ヴィリカスはそう言った。


『エマの、ことだ』


 フサフサの尻尾を悲しげにダランとさせて、ヴィリカスはエマの墓を見つめる。

 その目は、あの日を思い出すように遠いところを見ているようだった。


うぬがエマを見つけた時、彼女は既に瀕死の状態だった。命の灯火はすでに、消える寸前だったのだ』


 ヴィリカスがエマを見つけたのは、彼女が失踪した翌日のことだった。

 前日からやけに魔の森が騒がしくて、原因を探るために魔狼は一族総出で駆け回っていたという。


 そこへ、仲間のうちの一頭が、エマを見つけた。人間が森にいる、と。


 その当時、ディンビエ国内の魔の森に人間がいるのは、異常なことだった。

 魔の森から最も近いトルトルニアは、防護柵を作って魔の森こちらを拒絶していたからだ。


『まさか』


 見間違いだろうと行ってみれば、間違いではなかった。

 人間は確かに、そこに居た。


 大きな木にもたれるように、老婦人が座っていた。

 エディと良く似た、くすんだ灰茶色の髪。もとは綺麗に結い上げられていたそれは、鳥の巣の失敗作のようにグチャグチャだった。

 服もあちこちが破れ、血が流れている。もとは品のある鴨の羽ティールグリーン色をしていた服は、血で赤黒く染まっていた。


 口から吐き出される息はか細く、もう長くないことが窺い知れる。

 彼女の手にはしっかりと、折れた矢と弓が抱えられていた。これだけが、頼りだというように。


 ヴィリカスは、ゆっくりと老婦人に近づいた。

 足音に気付いた彼女の瞼が、ゆっくりと力なく、震えながら持ち上がる。


「ヴィリカス」


 老婦人は、ヴィリカスを見て、彼の名を呼んだ。

 ヴィリカスもまた、老婦人を見て、彼女の名前を呼んだ。


『エマ』


「最期にどうしても、あなたに会いたくて。図々しいと思うわ。けれど、あなたにしか、頼めない」


『本当に。お前は、いつも自分勝手だな』


「ごめんなさいね、こんな女で。でもあなたも、悪いと思うわ。女の趣味が、悪過ぎる」


『それで、頼みと言うのは?』


「……私を、食べてちょうだい」


 エマの申し出に、ヴィリカスはムッとした。

 だって彼は、理性のある魔獣だから。理性のある魔獣は、人に恋することはあっても、食べることはない。決して。


『エマ』


 咎めるように彼女の名前を呼べば、「仕方ないじゃない」と若かりし頃のように苦笑いを浮かべる。

 エマはいつもそうだった。ヴィリカスを相手にする時はいつだって、申し訳なさそうに苦笑いを浮かべている。


「だって、私があげられるものなんて、私自身しかないのよ。でも、そうね……どうしても嫌だというのなら、これだけでも、お願い」


 そう言って、胸元から取り出したのは、一本の鍵だった。

 懐かしい気配がするその鍵が何なのか、ヴィリカスにはすぐに分かった。


『ヴィリニュスの鍵、か』


「そうよ。トルトルニアを守る鍵であり、恐ろしい笛の一部でもある。私では、この鍵を壊すことが出来ない。これを壊すことができるのは、──の血を色濃く受け継ぐ者だけ。私の孫ならば、もしかしたら……でも、もう、無理ね。今の私じゃあ、ミハウのところまで持っていけないもの。だから、お願い、ヴィリカス。何のお礼も出来ないから、せめて私を食べてちょうだい。その見返りに、孫がこの鍵を取りに来るまで、預かっていて欲しいの」


 エマが鍵を差し出してくる。

 けれど、もう彼女は握ることさえも出来なくなったのか、手から鍵がポロリと落ちた。

 突き返そうと咥えて持って行ってやると、エマは「ありがとう」と泣いて笑った。


「でももう、持てないわ」


 縋るように、エマがヴィリカスの目を見つめる。

 いつも凛としていた目は、少しずつ光を失いつつあった。


『ふん。お前のような婆さんを食べても、腹の足しにもならん。だが、そうだな。同じ血が流れる仲間として、貴女の最後の願いを聞き入れてやる』


「ありがとう、ヴィリカス」


 エマの前で、ヴィリカスはゴクンと鍵を飲み込んだ。


『これで良いか?』


「ええ、ありがとう。それから……一つだけ、注意して欲しいの。マルゴーリスという人が来ても、決して鍵を渡してはいけない。渡して良いのは、ミハウという少年と、エディタという少女だけよ」


『承知した』


 ヴィリカスが深々と頷くと、エマは安堵の表情を浮かべた。

 それから彼女は、眠るように瞼を下ろしていく。


 エマの唇から、最期の息が漏れ出る。

 彼女の手から、矢と弓が零れ落ちた。


 それが、エマの最期だった。


『鍵をどうにかしなければ。その想いだけで、意地だけで、彼女は命をつなぎ止めていたのだろう。最期に彼女が、己を頼ってくれたことを、己は誇りに思う』


 そう言って、ヴィリカスは話を締め括った。

 それきり彼は何も喋らない。もう終わりだというように、彼は一本の鍵を吐き出した。


 鼻面で鍵を押し出し、エディを見る。

 ロキースに背を押され、エディは立ち上がった。

 ゆっくりと歩み寄り、鍵を手に取る。


 鍵がエディの手の内に収まるのを見届けて、ヴィリカスはどこか悲しげだった。


(もしかして、ヴィリカスさんは……)


 エマに、恋をしていたのだろうか。

 彼女の最期の願いを叶えて、彼女との繋がりがなくなってしまったような、そんな気持ちなのかもしれない。


 ヴィリカスは何も言わない。

 もうエディのことなんてどうでも良いみたいに、背を向ける。


 エディは、エマとヴィリカスの関係がどんなものなのか知らない。

 だけど少なくとも、言えることが一つある。


「おばあちゃんは、愛情深い人です。きっといつまでも、あなたを想っている」


 無責任な言葉だ。

 だけど、どうしても言いたかった。


 魔狼の尻尾が一振りされる。

 大きくブンと振られた尾は、礼を言っているように見えた。

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