第34話 勇気を出して
「ヴィリニュスの鍵は、夕方になると決まった場所でしばらく止まる。もしかしたら、魔獣の寝床がそこにあって、休んでいるのかもしれない」
だから、探索するのは明日にしよう。
ロキースはそう言って、薄暗くなり始めた外を見た。
いつもだったら、エディは帰る時間である。
それは彼女も分かっているはずなのに、チラチラと窓を見ては、物言いたげな、でも躊躇うような視線をロキースに向けてくる。
不安なのだろうか。
ロキースにとって魔の森は実家のようなものだけれど、エディからしてみたら敵地のようなものだ。
明日のことを心配しているのかもしれない。
ロキースはエディを家へ帰すか少し迷って、お茶を入れることにした。
お茶を一杯だけ。
それくらいの時間なら、過保護な
立ち上がり、キッチンへ向かうロキースに、エディはやはり何か言いたげな視線を向けてくる。
そういうわけでもないな、とロキースは思った。
何か言いたいというより、ロキースから何かを言ってくれるのを待っているような気配がする。
明日について、説明し忘れたことがあるのか。
それとも、泣きながら訴えてきたエディの言葉を、何か間違えているとか。
いろいろ考えるが、思い当たるものがない。
エディの全てを見逃さないつもりで接しているが、彼女の心までは見通せない。
彼女の心は彼女だけにしか分からないから、話して貰わない限り、ロキースに知る術は無いのだ。
少しでもエディがリラックス出来るように、常備している蜂蜜の中で、一番おいしいと思っているとっておきの瓶を用意する。
お湯を沸かして紅茶を淹れて、とろぉりと蜂蜜を垂らせば、ロキースお気に入りのハニーティーの完成だ。
「どうぞ」
トレーに載せたティーカップを、慣れた手つきでエディへ手渡す。
初めて獣人の姿で彼女と会った時、手が震えて大変だったことを思い出した。
彼女が近くにいる。
それだけで、心が躍った。
なのに、お茶を出しただけで柔らかな笑みを浮かべてくれて、それだけでも嬉しいのに、更に「ありがとう」なんて言ってくれるから、ついつい舞い上がって、話の途中だというのに執拗に茶を飲むよう勧めてしまったのだ。
懐かしい。
そう昔のことでもないのに、ロキースはそう思った。
懐かしいと思うのはきっと、今のロキースとエディの距離が変わったからだろう。
最初は「お付き合いする前の男女には適正な距離が」なんて言っていたエディも、抱っこしたり唇以外にキスをしたりしても注意しなくなった。
もっとも、欲望が抑えきれずに指を食んでしまった時は、さすがに逃げ出されたのだけれど。
ふぅふぅと熱い紅茶に息を吹きかけるエディの唇は、つんと尖って可愛らしい。
突き出された唇を見ていると、どうしてもキスがしたくてたまらなくなってくる。
ムラムラする気持ちを鎮めるように、ロキースは紅茶を飲み干した。
唇にキスをする日がくるのは、もう間もなくだろうか。
その日が来るのを想像すると、ロキースは嬉しいような寂しいような気持ちになった。
紅茶を一口二口飲んで、エディは溜め込んでいたものを吐き出すようにフゥとため息を吐いた。
それからちらりと窓の外を見て、何故か安堵したように唇に笑みを浮かべる。
なにか見たのだろうかとロキースが同じところを見つめても、そこにあるのは先程よりも藍色が濃くなった夕方の空が見えるだけ。藍色というより、もう紺色に近い。もう夜と言っていい時間帯だ。
夜の魔の森は、昼間以上に危険になる。
危険な魔獣は、夜行性が多いからだ。
魔の森で最強とも言える魔熊が護衛につくから問題はないが、それでも少しは心配になる。
「エディ。そろそろ──」
帰らないと、という言葉を遮るように、エディが静かに呟いた。
「夜になっちゃったね」
「ああ、じゃあ──」
送っていく、という言葉を遮るように、エディが言葉を重ねた。
「夜行性の魔獣が出るかもしれない。ねぇ、ロキース。今夜は、ここに泊まっても良い?」
エディの言葉は、最後の方が震えていた。
きっと一生懸命、頑張って言ったのだろう。
男女の距離を気にする彼女の精一杯が、その言葉に詰まっているようだった。
婚前の男女が一つ屋根の下で夜を過ごすことは、彼女の常識では有り得ないことのはずだ。
それでも、彼女は恥を忍んでそう言ったのである。
ロキースは、エディの言葉をしばらく反芻する時間が欲しくて、もう空っぽのティーカップを口につけて飲んだフリをした。
そろそろお泊りも良いのではないか。
そう思ったこともある。
だが、彼女の指を舐めるという前科がある以上、一晩紳士でいる自信など、ロキースにはなかった。
ここはやはり、帰すべきだろう。
「ごめん。無理だよね。僕、帰る」
エディはロキースの間を拒否とみなしたようだ。
顔を俯けたまま、寂しげに「バイバイ」と背を向けるエディ。
その姿を見て、ロキースは心底後悔した。
抱きしめて甘やかすと決めていたのに。どうして、それが出来ないのだ、と。
帰すと決めたくせに、逃げるように足早に扉へ向かうエディの腕を、ロキースは掴んだ。
「エディ。どうして、泊まりたいのだ?」
「……家に、帰りたくない。帰ったらきっと、ルタさんは僕に言ってくる。ロキースをちょうだいって。ロキースを渡す気なんてないけれど、彼女は美人だし、僕はこんなチンチクリンだから……心配に、なる。僕がここに居れば、少なくともルタさんに会うことはないし、万が一彼女がやって来ても、僕がロキースを引き離せるかなって、そう、思って……うぅぅぅ。ごめん、ただの独占欲。だから、ロキースは気にしないで。じゃあ、僕、帰るから。手、離して?」
クイクイと掴まれた腕を振るエディに、ロキースは拘束する手を離すどころか、ギュッと掴んだ。
そのまま強引に彼女を引き寄せ、ポスンと胸に顔を押し付ける。
抱え込むように抱き寄せると、湧き上がる愛しさが口から零れ落ちた。
「エディ、愛している」
「ふぁっ⁈」
耳元で、ゾクゾクするほど色っぽい
エディの体から、ガクンと力が抜けた。どうやら、彼女は腰が抜けてしまったらしい。
ヘナヘナと崩れ落ちていくエディを、ロキースは軽々と抱き上げた。
エディを横抱きにして、膝の上に乗せながら、ロキースはゆったりとソファへ腰掛けた。
力の抜けた腰を、労わるように撫でていたら、その途中でようやくエディは我に返ったらしい。
真っ赤な顔で、ロキースを睨みつけてきた。
彼からしてみたら、可愛いの一言に尽きるのだけれど。
「と、突然なにを言っているの!」
「思いがけず、エディから嬉しい話を聞けたから、そのお返しだ」
叩くふりで振り上げられた手を取り、ロキースは小さな手の甲にキスを落とす。
もうこれ以上ないくらい赤くなったエディは、茹でだこみたいだ。
「いぃぃぃ!」
奇声を上げながらポカスカと叩いてくるが、ちっとも痛くない。
「可愛いな、エディは」
わざと耳元で囁けば、エディの奇声と手が止まる。
顔を覗き込むと、エディは隠すようにロキースの胸に顔を押し付けた。
ああ、かわいい。
かわいすぎて、食べてしまいたい。
今夜はもう、彼女を帰せそうにない。
帰りたくないと本人が言っているのだし、良いじゃないか。
果たしてその晩、エディはロキースに何をされたのか。
幸か不幸か、至って健全な一晩だったようである。
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