第33話 獣人の夢

「こんにちは、ロキース」


 そう言って、思い詰めたような表情を浮かべて訪ねて来たエディに、ロキースは嫌な予感しかしなかった。


 もしかしたら、お別れを言いにきたのかもしれない。

 ロキースの脳裏を、そんな考えが過ぎる。


 逃げる時はただ恥ずかしがっていたように見えたけれど、冷静に考えてみたらロキースに幻滅したのかもしれない。


 我慢できずにエディに手を出してしまったことは、悪いと思っている。

 でも、ロキースだって男だ。

 好きな子に気のある素振りをされたら、舞い上がってしまう。


 いつものように菓子を皿に並べ始めても、エディはソファから立ち上がらない。

 膝の上に置いた手をギュッと握って、床を睨みつけていた。


「エディ、どうした?」


 どうしたのだ、なんて白々しい問いかけだろうか。

 でも他にどう声をかけて良いのか、ロキースには分からなかった。


 ロキースの問いかけに、エディはビクンと肩を揺らす。

 ゆっくりと上げたエディの目には、うっすらと涙が浮かんでいた。


「エディ⁈」


 泣くほど嫌だったのかと、ロキースは動揺した。

 オロオロしているロキースを前にして、エディはスンと鼻を鳴らす。


「ろきー、す……どうしよう……僕……とんでもないことをしちゃったかもしれない」


 言いたいことはもっとあるのに、言いたい言葉は喉に詰まって声にならない。

 エディはヒックヒックと嗚咽を漏らし始めた。


 そんな彼女を、ロキースは力強く引き寄せる。

 半ば衝突するように抱きしめられて、エディも縋り付くように腕を回した。


「エディ。大丈夫だから。俺は何があってもエディのそばにいる」


 ロキースの大きな体が、エディの小さな体を包み込む。

 低くて優しい声が「大丈夫、大丈夫」と安心させるように何度も告げてきた。


「あの、ね。もしかしたら、戦争になるかもしれなくって。ロキースも、僕から離れていっちゃうかもしれないって……どうしよう……僕、ロキースの隣にいられなくなっちゃうかもしれない」


 エディの言うことは要領を得ない。

 だが、彼女が不安でいっぱいだということは確かなようだった。


「嫌だよぅ……嫌なの……」


 エディは、子供のように泣きじゃくった。

 ロキースの胸に顔を押し付けながら、ぴったりと体をくっつけてくる。


 こんなに無防備に体を預けてくるエディは、初めてだった。

 泣いている彼女には申し訳ないが、ロキースは嬉しいと思う気持ちが止まらなくなる。


 だって、夢だったのだ。

 エディは小さな頃から、いつも一人でひっそりと泣いていた。

 小さく丸めた背中を見つめて、守ってあげたいと思っていたのだ。


 だからロキースは、いつか獣人になれたら、エディが泣いた時は抱きしめて甘やかしてあげようと決めていた。


 それから、どれくらいそうしていただろうか。

 根気強くエディの話を聞き続けた結果、ロキースにもなんとなく事態が飲み込めた。


 彼女が言うには、こうである。

 ヴィリニュスの鍵というのは、鍵の役目だけでなく魔笛の一部という側面もあった。

 魔笛というのは魔獣を意のままに操ることが出来る笛なのだそうだ。

 それを使われたらロキースが操られ、その結果、獣人との恋に憧れる彼女の義姉、ルタのものになってしまうかもしれない──らしい。


 そんな馬鹿な、とロキースは思った。

 くだらない笛如きで、自分の気持ちが変わるわけがない。


 だが、そのせいでエディは泣いているのだ。

 馬鹿げたことだと、一蹴することがロキースには出来なかった。


「ロキースの隣がルタのものになったら、僕は……僕は……!」


 その先を言うことさえ怖がっている様子のエディは、離れることを恐れるようにロキースにしがみついた。


 エディはロキースの隣を、こんなにも望んでくれている。

 ロキースの隣は、エディ以外有り得ないというのに。


「そんなことには、絶対にならない。俺が、させない」


「でも……!」


「俺の隣はいつだってエディだけのものだ。だが、エディがそんなに不安なら、一刻も早く鍵を手に入れよう。エディは泣き顔も可愛らしいと思うが、笑ってくれている方がもっと好きだ」


 抱きしめる腕を緩めたロキースは、そっと体を屈めた。

 まだ涙が残るエディのまなじりに、唇を寄せる。

 素直に目を閉じてキスを待つエディは、押し倒したいくらい可愛らしかった。


 チュと音を立てて涙を拭い、顔を上げる。

 絡んだ視線の甘さに、どちらからともなく目を逸らした。


「ごめんね、みっともなく泣いちゃって」


 エディが照れ臭そうに、ぎこちなく笑う。

 ようやく見せてくれた笑顔に、ロキースはホッと息を吐いた。


「いや。俺は夢が叶ったし、気にするな」


「ロキースの夢?」


「あ、いや、その……」


 安堵したせいか、ポロリと溢してしまった失言に、ロキースは狼狽うろたえた。


「ロキースの夢ってなに? 教えて?」


 よほど興味をそそられたのか、エディは泣き濡れた目をキラキラさせながら、ロキースの顔を覗き込んでくる。

 とどめに「お願い」と言われてしまっては、惚れた弱みもあってか誤魔化すことも難しい。


 だが、この夢はロキースにとって宝物のような思い出と結びついている。

 たとえエディのお願いであっても、いや、エディのお願いだからこそ、恥ずかしかった。


「いつか。いつか話すよ。でも今は、鍵のことを考えようか?」


 大人ぶってそう返せば、そうだったとエディの表情が引き締まる。

 少年のようだと言われる彼女だが、ここ最近は随分と女性らしくなってきたような気がする。


 惚れた欲目も多分にあるだろうが、きっと彼女はこの先、もっと綺麗になっていくのだろうなとロキースは思った。


 ロキースが夢を話せるようになった時、彼女はどんな女性になっているのだろう。

 そう未来に想いを馳せて、まずは鍵だなとロキースは緩んだ顔を引き締めた。

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