第29話 薬指に噛みあと

「……んあ?」


 目を覚ますと、そこは知らない部屋だった。


 最初に目に入ったのは、天井だ。木をくり抜いたようなおかしな天井である。

 モゾモゾと体を横にすると、次に目に入ったのはカーテンだった。緑色をしたカーテンには、見覚えがある。


「もしかして……ロキースの家?」


 まだ上がったことがない、二階の寝室。

 階段と部屋と遮るカーテンが、確かこんな色をしていなかったか。


 そこまで思い至って、エディは自分がどこで眠ってしまったのか思い出した。


(は、恥ずかしいぃぃ)


 まずい。まずすぎだろう。


(ロキースに抱っこされながら寝ちゃうなんて……)


 エディの頰が、赤く色づく。

 顔や首、耳が尋常じゃなく熱くなるのを感じて、彼女は抑え込むように髪で顔を隠した。


(寝顔、見られちゃったよね……ひどい顔していなかったかな? ヨダレとか、垂らしていない? 大丈夫だった⁉︎)


 叫び出したいくらい、恥ずかしい。

 寝顔を見られただけなのに、どうしようもなく恥ずかしい。


 ベッドの上で唸っていると、足音が近づいてくる。

 ギ、ギ、と軋むのは階段だろう。


(どうしよう、どうしよう、どうしよう!)


 エディは咄嗟にケットを被って一時的にでも寝たフリをしようとしたが、遅かった。

 階段を昇りきったロキースと目が合う。

 エディを見るなりふわりと浮かんだ花のような笑みに、彼女の手からハラリとケットが落ちた。


「おはよう、エディ。ああ、良かった。目の下の隈、少し消えたみたいだな」


(あぁ、もう……好き)


 告げる勇気はまだないが、思わずにはいられない。

 これはもう、決定的だ。

 恋に限りなく近い感情、なんてものじゃない。


 胸の奥に灯るこの気持ちは、間違いなく恋情と呼ぶものだろう。

 気のせいか、ロキースの周りにキラキラと花が咲いているように見える。


 彼と自分の周囲の空間が、世界から切り離されたようにも感じる。

 二人だけの世界。なんて甘美な響きだろうと、エディはうっとりした。


「おはよう、ロキース」


 そう言うエディの声は、今までになく甘く彼の名を呼ぶ。

 その声音の変化に、ロキースが気づかないわけがない。

 朴念仁ではあるが、それだけの彼ではないのだ。


 決定的なのは、彼女の目だった。今までだったらしっかりと合っていた視線が、スイ、スイと逸らされる。まるで、目が合うだけでも恥ずかしいというように。


 もう一度、乞うてみようか。

 俺に恋をしてくれと言ったら、エディはなんと答えてくれるのだろう。


 期待せずにはいられない。

 見るからに脈ありな様子のエディに、ロキースはソワソワと尻尾を揺らす。


 ロキースはベッドの縁へ腰を下ろすと、エディを見つめた。

 寝起きだからか、彼女の匂いが濃い。ミルクに蜂蜜を混ぜたような甘い匂いは、ロキースの理性を軽々と揺さぶってくる。


 ロキースは本能のままに、ベッドの縁を握っていた手をエディの手の上に重ねた。

 ビクリと跳ねた手。だが、彼女は重なった手を見下ろしたまま、微動だにしない。


 手を繋いだこともあったのに。

 今更そんな反応をするエディが、ロキースは愛しくてたまらない。


 だって、どう考えたって意識されている。

 一体何が決め手だったのかは分からないが、彼女はロキースのことを男として意識しているに違いない。


 ロキースはこの確信を確かなものにすべく、エディとの距離を詰めた。

 少しだけ、座る位置を変えてみる。

 すると、エディはヒュッと息を飲んだ。


 呼吸するのを忘れてしまったように、エディは唇を引き結んでロキースを見つめてくる。

 まるで、獲物を見つめる猛禽類みたいだ。引き絞った弓のように、その目は決して、ロキースから離れない。


 ロキースが動いたら、彼女はどんな反応をするのだろうか。

 少しだけいじめてみたいという、意地悪な気持ちが湧いてくる。


 ロキースは、重ねていたエディの手を握る。

 親指でスリスリと撫ぜると、爛々らんらんとしていたエディの目が、今度は潤み始めた。


「ロキース……?」


 やめてほしいのだろうか。

 だが残念なことに、ロキースはやめたくないと思ってしまった。

 潤んだ目で見上げてくるエディは、食べたくなるほどかわいかったから。


 ロキースは、エディを食べたくて食べたくて仕方がなくなった。

 ゴクンと喉を鳴らした彼は、エディの手を持ち上げると唇を寄せる。


 紳士が淑女に礼をするように、指先へのキスで終わらせるつもりだった。

 まだまだ子供な彼女には、それだけでも許容範囲をオーバーすると思ったからだ。


 だが、理性が緩んだ獣人は、こんな時、ろくなことをしない。

 キスをするつもりで唇を寄せたはずだったのに、ロキースはあろうことか、エディの指を口に含んでいた。


「ひゃっ⁉︎」


 ぴちゃり。

 ロキースの舌がエディの指に絡みつき、ヌルヌルと舐める。


「やめてよ、どうしてこんなことするの?」


 棒突きキャンディーでも舐めるように、ロキースはエディの指を舐めた。

 まるで獣のように、ロキースの息が荒い。

 一体どんな味がしているのか、その顔は恍惚としていた。


(酔っているみたい) 


 顔は赤らみ、目が据わる。

 酔っているのと違うのは、エディをクラクラさせる濃厚な大人の雰囲気が漂っているという点だろう。


 ロキースの色気に当てられて、エディまで酔ってしまいそうだ。

 抵抗することも忘れて魅入っていたら、今度はアグアグと甘噛みまでされる。


 指の根本に残る噛み跡が、まるで指輪のようだった。

 薬指じゃないのが残念に思えて、エディは無意識に薬指を差し出すようにロキースの口へ運ぶ。 


 カプリ。

 ロキースの綺麗に並んだ歯が、エディの薬指の付け根を噛む。


「あ……」


 エディの唇から、吐息混じりの声が漏れる。

 喘ぐようなその声に、ロキースは劣情を煽られているような気になった。


「エディ……」


 途端、ロキースから表情が消える。

 ゾクゾクするほど獰猛な目で見つめられて、エディはハッとなった。


「ろ、ろろろロキース!」


 力任せに手を奪還すると、エディは慌てて背中に隠した。

 ロキースの目は、獲物を検分するようにエディを見据えたままだ。


(な、ななななに、この雰囲気は! うっかり流れに任せちゃっていたけれど、すっごくすっごくまずい雰囲気なんじゃないのか、これは!)


 エディの思う通りである。

 このままロキースを放置すれば、喰われることは必至。

 ロキース曰く、理性がある魔獣は人を喰わないらしいから、これはたぶん──、


(別の意味で喰われちゃうー!)


 それはダメだろう。いくらなんでも、早すぎる。

 なし崩しでキスをしてその先もなんて、エディの理想とかけ離れすぎだ。


(そもそもそういうのは、結婚してからっ!)


 そうだ、その通り。

 順番って大事である。


 それにエディは、まだロキースに気持ちを伝えていない。

 ロキースがいなくなったら嫌だと、そんな感じのことは言ったけれど、決定的なものはまだである。


(けど、今ここで言える勇気は、僕にはないっ)


 だってロキースの目は、今もギラギラしているのだ。

 今すぐにでも飛びかかりたいのを我慢しているみたいに、息が荒い。


「ごめん、ロキース! 次! 次こそ言うからー!」


 エディはそう言うと、軽やかにロキースを跳び箱のようにして逃げた。

 鮮やかな逃走に、我に返ったロキースは腹を抱えてベッドへ転がる。


「……っくく。エディ、かわいすぎだろう」


 次が楽しみでならない。

 出来ればすぐ来てくれると良いのだが、とロキースは窓から見えるエディの背中を見つめながら思った。

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