2章

第11話 その笑みは花のように

「こんにちは、エディ」


 深みのある美声で、ロキースはディンビエらしい挨拶をしてきた。

 いつものように日当たりの良い屋根の上で欠伸をしていたエディは、吐き出していた途中の呼気をごくんと飲み込む。


「え……ロキース、さん?」


 慌てて起き上がって階下を見れば、ハニーブラウンの髪が秋風に揺られてフヨフヨしている。

 チェック柄のおしゃれな帽子は耳を隠すためだろうか。なかなか似合っていた。


「ロキース、で良い」


 そう言うと、ロキースはあるかなしかの笑みを浮かべた。微笑と言うには、あまりにもささやかな笑み。

 だが、エディの目には、それが大人特有の渋みのある色気のように見えて、胸が勝手にドキドキと脈打った。


(……って! 勝手にドキドキするなよ、僕の心臓!)


 恥ずかしいな、とエディは唇を尖らせた。

 本当に、困る。

 エディには、これと決めた使命があるのだ。


(おばあちゃんが見つかるまでは、恋なんてしている暇なんてない……はず、だよね?)


 とはいえ、エディのために獣人になった魔獣さんは、そんなことお構いなしに彼女の心をグイグイ揺らしてくる。

 今だって、名前を呼んで欲しそうに、甘く乞うような、期待に満ちた目で見上げてきていた。


 エディは「あぁ、もう」と口の中で呟いて、やけくそみたいに「ロキース」と彼の名前を呼んだ。


 名前をただ、呼び捨てで呼んだだけ。

 それだけなのに、ロキースの無表情に近い顔がとろりとほころぶ。


(ななななな!)


 花が咲く、とは女性の笑みに向けて使う言葉かもしれない。

 けれど、エディのそう多くない語彙ではそうとしか言いようがなかった。


(き、綺麗過ぎる!)


 さすが人外、とエディは心の中で賞賛した。

 果たしてそれが褒め言葉なのか怪しいところだが、本当に、人とは思えない美しさなのだ。

 人はそれを欲目と言うのだが、エディはまだ分かっていない。


(ぐぬぅぅ! これは、反則っ)


 ロキースからしてみれば、エディの気持ち次第で生きるも死ぬも決まるのだ。彼女がどんなに恋を遠ざけようと、気持ちを揺さぶらなくては始まらない。


 ジョージはロキースへ言った。好きか嫌いかよりも、まずは関心を持ってもらうことが大事だと。

 たとえ最初が嫌いだとしても、無関心よりはずっとマシである、とも言っていた。


 少なくとも、ロキースの目には、エディが無関心であるようには見えなかった。

 ぼんやりしているように見えるが、ロキースはわりとエディのことだけはよく見ている。正直、エディのことしか見ていないと言っても過言ではない。辛うじて、助言をくれるジョージのことは、見ていなくもないという程度である。


 思わずみたくなるような柔らかそうな頰が、林檎みたいに赤く色づいているのは、見間違いなんかじゃない。

 じっと見つめていると困ったようにふいと視線を逃すところも、恥ずかしがっているようにしか見えなかった。


 あぁ、可愛い。

 可愛くて可愛くて、食べてしまいたい。


 まさかロキースが花のような笑みの下でそんなことを考えているとも知らず、エディは勝手にポッポする頰を隠すように手のひらを押し当てた。


「ところで、ロキースはどうしてここへ? ジョージさんは毎日行くみたいに言っていたけれど、本当に毎日来るつもりなのか?」


「今は、難しい。やることがある」


「やること?」


 やることとは、一体。

 エディは頰に手を押し当てたまま、コテリと首を傾げた。

 なんだかぶりっ子がするようなあざとらしい仕草だが、男装している彼女がやるといやらしくは見えない。それどころか、可愛いだけである。

 ロキースの鼻の下が、少し伸びた。


「家を、作っている」


 そう言って、ロキースはヴィリニュス家の裏手にある魔の森を指差した。

 開け放たれた門扉の向こうには、薄い紫色をした魔素が漂う、暗い森がある。


「うそ。魔の森に、家を建てているの⁈」


 エディは驚いた。

 だって、信じられなかった。魔の森に家なんて、普通は考えられない。

 建てている最中に、何人死んでしまうのだろうか。運良く家が建ったとしても、いつ魔獣に襲われて命を落とすか分かったものじゃない。考えるだけでも恐ろしい。


「魔の森で暮らすなんて、あぶな……あ」


 そこで、エディは口を閉ざした。

 危ない、なんて失礼だったかもしれないと思ったからだ。


 ロキースは、今では人とあまり変わらない獣人だが、その前は魔獣だったのである。

 となれば、住んでいるのは当然、魔の森だ。

 住み慣れた魔の森に、彼が家を建てるのはおかしなことではない。


(……よね?)


 魔獣が獣人になる仕組みは教えてもらったが、その他のことについては謎だらけだ。

 獣人が魔の森に家を建てて住むことに、どれほどの危険があるのかなんて、エディには想像もつかない。


 エディが言いかけた言葉に、ロキースはなんでもないように答えた。


「俺は、クマの獣人だから」


 だったら、なんだというのか。

 ますます意味が分からず、エディは戸惑いの表情を浮かべた。


「えっと……クマの獣人だと、安全なの?」


「そうだ。森でクマ以上に強い動物はいない。だから、襲われることはない」


「そうなんだ」


 見上げてくるロキースは、どう見ても人畜無害な生き物である。

 エディを襲う気なんて一つもなく、おとなしくお利口に立っていた。


 エディは、図鑑で見たクマを思い出してみた。

 仁王立ちして両手を上げて、大きな口を開けているクマ。

 それから、川の中を泳ぐ鮭を大きな手で河岸へ投げるクマ。

 どちらも、まるでモンスターのように恐ろしい顔で描かれていた。いかにも、獰猛な生き物なのだと言わんばかりに。


(あのクマが、ロキースの姿……どちらかと言えば、図鑑のクマより絵本のクマさんの方が似ているんじゃないか?)


 エディは、ホワホワの綿毛みたいな毛皮の子グマを想像した。

 丸い顔に丸い耳。ぽってりとしたお腹が実にキュートだ。木株の上に座っていたら、すごく良い。


(か、可愛い……!)


 綿毛の子グマが、魔の森の中でメルヘンチックなお家を作っているところまで想像して、エディは「見てみたい」と悶えた。


 それから、確かめるようにロキースを眺める。

 柔らかそうな癖毛は、なんとなく絵本のクマに似ているような気がした。愛嬌のある垂れ目も、デフォルメされて描かれたクマにそっくりである。


(なんって、可愛いの。抱きしめて一緒に眠りたい)


 うっかり乙女な部分が出てしまい、エディは慌てて気を引き締めた。


(いけないいけない。また、いろいろ緩んでいたぞ。しっかりしろ、エディ。僕には、トルトルニアを守るという使命があるのだから……!)


 拳を握りしめて邪念を振り払うように頭を振っていたエディに、ロキースは「それに」と続けた。


「俺がこの近くに住めば、鍵の代わりになる」 


「鍵の代わり?」


「ああ。ジョージから、聞いた。ヴィリニュスの……森守の鍵は欠けたままなのだろう? 俺がいれば、魔獣たちは怖がって近寄らない。そうすれば、エディの負担も減る。エディの負担が減れば、俺と会う時間が増える……と、ジョージが言っていた」


「なるほど」


 ジョージは、ヴィリニュス家の事情についてよくお分かりのようだ。

 隣国だというのに、しっかり調べられている。


 もしかしたら、リディアで失敗しかけたから、疑心暗鬼になってエディの時は頑張ったのかもしれない。

 最初からきちんとしていたら、あんな恋人のフリ無駄なことをしないで済んだのに、とエディはちょっとだけジョージを恨んだ。


「元獣人たちも手伝ってくれているから、一週間もあれば、家は完成する」


「一週間⁉︎ 早すぎない?」


「木を操れる元獣人がいて、大きな木のうろを作ってくれた。一階をリビング、二階を寝室にする予定だ」


 大きな木のうろに、家を作る。

 エディは、小さな子グマがその家で生活する姿を想像して、勝手にほっこりした。


(木彫りの家具が似合い過ぎる……!)


 まるで、童話の世界である。

 お伽噺が大好きなエディは、その家が見たくてたまらなくなった。


「あの……お家が完成したら、見に行っても良い?」


 おずおずと聞いてきたエディに、ロキースは思わず鼻を押さえた。

 だって、あまりにも可愛らしすぎたのだ。


 姿が少年のようになろうと、彼女の本質は何も変わらない。相変わらず、可愛いままである。

 家に来たら悪いクマさんにペロリと食べられてしまうかもしれないのに、そんなことも思いつかない。


 何を考えているのか、彼女の目はキラキラと期待するようにロキースの返答を待っている。


 大好きな子におねだりされて、叶えない男などいるものか。

 ロキースは鼻を押さえたまま、苦い顔をしてコクリと頷いた。

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