第8話 熊の獣人、ロキース

「……」


 これまでの日々を思い出して、エディは沈黙した。


(我ながら、すごい変わりようだ)


 白魚のようだった手は、すっかり日焼けしている。左手の親指の付け根は、弓を支えるせいで硬くなっていた。もう、令嬢の手ではない。


 弓の名手として名を挙げて、トルトルニアの人々からも感謝の言葉を貰える。それはエディの自慢だったけれど、女の子としては規格外だろう。


 エディは、自分は目の前で跪く男に似合わないと思った。

 この綺麗な男の人は、リディアみたいに可愛らしい女の子にこそ相応しい。


 大きな体は、きっと優しく包み込んでくれるだろう。

 柔らかな髪の間に手を差し入れたら、きっと触り心地が良いだろう。

 蜂蜜みたいな目で一途に見つめられたら、世界一甘い気分に浸れるだろう。

 体の奥底まで沈み込んでくるような声で愛を請われたら、好きにならずにはいられない。


(ああ、これが──)


 これが、ジョージの言う好みドンピシャというやつなのだろう。

 リディアがコロリといってしまったのもよく分かる。

 だって、目の前で跪く男は、本人でさえ知らなかったエディの好みそのものだった。


(僕にも、好みなんてあったんだ?)


 驚きである。

 女を捨てて五年。

 リディアが言うように、お伽噺が好きだったり、恋に憧れたりと、捨てきれていない部分も多いが、それでも異性にときめくことなんて一度だってなかった。


(そりゃあ、そうか。だって、こんな人、トルトルニアにはいないもの)


 大きな体に、低い声。

 蜂蜜に緑をほんのちょっぴり混ぜたような不思議な色をした目なんて、見たことがない。


 どこをどう見ても、文句なしの|美形(イケメン)である。

 そうそうお目にかかれるものではない。

 これがエディでなくリディアであったなら、もっとたくさんの語彙で彼を褒め称えていただろう。


(流れ星の軌跡を撚り集めたみたいな銀の髪に、陶磁器みたいに真っ白な肌、だったかな?)


 今朝、デートに行くのだと張り切っていたリディアは、ルーシスのことをそんな風に言っていた。


(うーん……やっぱり、僕みたいな子にはもったいない)


 魔獣の恋は盲目的だから、どんなにエディがそう思ったところで、何も変わらない。

 魔獣の恋は一生に一度だけ。これと決めた人のために、獣人へと変化する。

 知っているけれど、それでも、彼女は思わずにはいられない。


(だって僕は、ちっとも女らしくない)


 そう思うと途端に、皮が厚くなった手がみすぼらしく見えた。

 まるで、金メダルだと思っていたものが、実は金メッキだったような気分である。

 エディは知らず、親指を隠すように拳を握った。


 そんなエディの小さな拳を、ロキースの大きな手がそっと包み込んだ。

 咄嗟に手を引っ込めようとしたエディだったが、まるで捨てられた子犬のような淡黄色の目に見つめられて、「うぐ」と小さな呻きと共に固まる。


「俺の名前は、ロキース、だ」


「……ロキースさん?」


「ああ。それで……俺は、熊の獣人だ」


 そこまで言って、ロキースは眉間に皺を寄せて「んん……」と唸った。

 どうやら、それ以上何を言うべきなのか困ってしまったらしい。


 彼の話し方はぎこちない。

 魔獣から獣人になったばかりだからというよりは、もともとあまり喋るタイプではないのだろう。言葉少なに、それでも一生懸命伝えようと努力してくれている。


 迫力ある美形が困った顔をしていると、近寄り難さが少しだけ和らいだ。

 どうにも放っておけなくて、エディは「仕方ないなぁ」と苦笑いを浮かべた。


「こんにちは、ロキースさん。僕の名前は、エディタ・ヴィリニュス。エディタは恥ずかしいから、エディって呼んで。ずっと見ていたなら分かっているだろうけど、こう見えて女。特技は、弓。実は、一族でも一番か二番の腕前なんだ」


 エッヘンと胸を張ってみせると、ロキースは眩しいものを見るように目を細めた。

 それから、エディの手を包み込んでいた手を広げて、改めて小さな拳を見つめる。


 女の子とは思えない、傷だらけの手だ。特に親指の付け根は何度も肉刺まめを作っては破いてを繰り返したらしく、皮膚が硬くなっている。


 ロキースは知っている。

 ある時期から、彼女が血の滲むような努力をしてきたことを。

 だって、ずっとずっと見てきた。

 この手は、彼女の勲章なのだ。


 ロキースは、壊れそうに小さな手からそっと手を離した。

 それから、ゆっくりゆっくり、殊更慎重に手を持ち上げて、エディの頭の上へ到達する。


 よく、頑張ったな。


 そんな想いを込めて、ロキースはエディの頭を優しく撫でた。

 サラサラの髪は、絡まることなくロキースの指の間をすり抜けていく。


「そうか……俺は……蜂の巣を探すのが、得意だ」


 エディは突然頭を撫でられて、わけが分からなかった。

 それでも、その手に悪意なんて微塵も感じられなくて、どうしてかジョージが生暖かい眼差しでウンウンと納得するように頷いているものだから、よくわからないなりにおとなしくしていた。


 エディが「蜂蜜が好きなの?」と尋ねると、ロキースは彼女の目と鼻の先でフワリと微笑んだ。

 それはまるで、秋に色とりどりの落ち葉が降り積もって暖かな絵を描くような、鮮やかで優しい笑みだった。


(うっわ……!)


 エディは、たまらず唇を引き結んだ。

 そうしないと、急に跳ねた心臓が口から転がり出てしまうかもしれないと思ったからだ。

 あまり表情に変化がなかったせいで、その微笑みの破壊力は凄まじい。

 美形ってとんでもないと、エディは思った。


「エディ? どうかしたのか?」


「な、なんでもないっ」


 唇を引き結んで凝視してくるエディの顔を、ロキースは覗き込んだ。

 再び接近してきた端正な顔に、エディは「わあぁぁ!」と悲鳴を上げ、後ろに逃げる。

 追いかけようと立ち上がりかけたロキースを制止するように、彼女は手を前に突き出してストップをかけた。


「ちょ、ち、近くない?」


「そうか?」


「お付き合いする前の男女には、適正な距離っていうものがあるだろうっ⁈」


「そうなのか? エディと会えたから、つい嬉しくてそばに寄ってしまった。すまない」


 まん丸の熊耳が、ペショリと伏せられている。

 なんだか、エディの方がロキースをいじめているようだ。実際には、彼女の方がいろいろと切羽詰まった状況になっているのだが。


 いっぱいいっぱいで今にもパンクしてしまいそうなエディを見兼ねて、ジョージは「今日はこれくらいにしておきましょうか」と声をかけた。


 そう、

 これはあくまで、最初の一歩でしかない。


 魔獣と魔獣に恋された人は、出会い、逢瀬を重ね、絆を深めて想いを重ねる。

 それが、魔獣保護団体の任務であり、ジョージの任務なのだ。


 ジョージは懐からスケジュール帳を取り出した。

 ズレてもいない眼鏡をクイッと押し上げて、唇で弧を描く。


「では、次の休みはいつでしょうか?出来るだけ、早いお日にちですと助かります」


「ひっ」


 軍事大国ロスティ仕込みの、有無を言わさぬ笑顔で、ジョージは言った。

 逃すわけねぇだろ、とその顔に書いてあるようである。


 あいにく休みはなくて、なんて言い逃れ出来る勇気は、エディにはなかった。

 だって彼女は十五歳。まだまだ子供である。


「よ、夜は家業がありますので……出来れば、昼過ぎですとありがたく……!」


「毎日会いに行っても良いと。それはそれは、ありがとうございます」


 爽やかな笑みでそう返されて、エディは情けない声を漏らした。


(おっかない……逆らえる気がぜんっぜん、しない!)


 まるで押し売りされているような気分である。

 エディは半泣きになりながら、ジョージに今後の予定を押さえられた。

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